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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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閉ざす女官②

「でしたら、私から伝えます。白百合宮の者は、ルシアンの調査に協力するように、と。北側の古い管理について知っている者がいるなら、その者を知らせるように、と」


「よろしいのですか」


「ええ」


 リリアーナは揺り籠へ視線を向けた。


 赤子は何も知らずに眠っている。小さな手が布の端から少しだけ出ていた。


「この宮は、命を守るための場所だと思っていました」


 リリアーナの声は、少しだけ低くなった。


「でも、その足元に、別の誰かの命が眠っているのなら。知らないふりをして守られる穏やかさなど、きっと長くは続きません」


 ルシアンは黙って聞いていた。


 リリアーナは、そこにいるだけで場の空気を和らげる人だった。声を荒げず、誰かを責めるような言い方もしない。そばにいる者が自然と心を許してしまうような、柔らかい雰囲気をまとっている。


 だが、やはり王太子妃なのだと思う。


 決めるべき時に、彼女は迷いを表に出さない。守るものが目の前にある時、その声は決して揺れなかった。


 リリアーナは、そばに控えていた専属侍女へ視線を向けた。


「女官長を呼んでください」


「かしこまりました」


 侍女は静かに一礼し、部屋を出ていった。


 しばらくして、落ち着いた足音が戻ってくる。入ってきたのは、白百合宮の女官長だった。年配の女官で、リリアーナの前へ進むと深く頭を下げる。


「お呼びでございますか、リリアーナ殿下」


「北側区域について、ルシアン殿下が調査を進めています。白百合宮の者は、必要なことを隠さず協力するように」


 女官長は、ほんのわずかに目を伏せた。


「……承知いたしました」


「古い部屋の鍵や管理を知る者がいるのでしょう。その者を、ルシアン殿下に知らせてください」


 女官長は、しばらく黙っていた。


 けれど、リリアーナの前で拒むことはできなかった。


「ヘレナ・ローレンでございます」


 その名が、静かな部屋に落ちる。


 初めて聞く名だった。


 だが、女官達が口にすることをためらった名。


 北側の鍵と古い部屋を知る者。


 そしておそらく、昨夜、兵を止めた年配の女官。


 ルシアンは、その名を胸の内で繰り返した。


「どこにいる」


「白百合宮の奥の控えにおります。リリアーナ殿下の御用が済んだ後は、いつもそこで控えております」


「呼べ」


 今度は、女官長は拒まなかった。


「かしこまりました」


 深く一礼し、部屋を出ていく。


 扉が閉じられたあと、リリアーナは静かに息を吐いた。


「ヘレナは、長く白百合宮に仕えている者です」


「ご存じだったのですか」


「ええ。物静かで、規律に厳しい人です。けれど、私が北側のことを尋ねると、いつも話を変えました」


 リリアーナは少しだけ眉を寄せる。


「私は、古い宮には古い決まりがあるのだと思っていました。でも……それだけではなかったのですね」


 ルシアンは答えなかった。


 まだ、そうだとは言い切れない。


 だが、白い布の下にあったものを見た後では、ただの決まりで済ませることはできなかった。


 廊下の向こうから、新しい足音が近づいてくる。


 早くも遅くもない。


 乱れのない歩調だった。


 慌てて呼ばれた者の足ではない。呼び出されることを、どこかで待っていた者の足音のように聞こえた。


 扉の前で、女官長が一礼する。


「ヘレナ・ローレンをお連れいたしました」


 ルシアンは、扉を見据えた。


「入れ」


 扉が開く。


 入ってきたのは、年配の女官だった。


 白髪の混じった髪をきっちりと結い上げ、濃紺の女官服を隙なく着ている。背筋はまっすぐで、視線は低く保たれていた。老いはある。だが、弱々しさはない。長く王宮で仕えてきた者だけが持つ、余計なものを削ぎ落とした静けさがあった。


 彼女は部屋の中央まで進み、深く一礼した。


「リリアーナ殿下。ルシアン殿下。ヴァルキュリア様」


 落ち着いた声だった。


 呼び出された理由を知らない者の声ではない。


「ヘレナ・ローレンでございます」


 ルシアンはその顔を見た。


 怯えはない。


 後ろめたさも、すぐには見えない。


 ただ、長い間閉じていた扉の前に立つ者のような、固い覚悟だけがあった。


 ルシアンは、その静けさをしばらく見ていた。


 ヘレナは、ただ年老いた女官ではなかった。王宮で長く仕えた者に特有の、感情を表へ出さない作法はある。けれど、それだけではない。目の前の女は、何かを隠している者というより、隠してきた時間そのものを背負っているように見えた。


「昨夜、北側管理門の兵を止めたのは君か」


 ルシアンが問うと、ヘレナはわずかにまぶたを伏せた。


「私でございます」


 否定も、言い訳もなかった。


 リリアーナの部屋に、静かな緊張が落ちる。揺り籠の中で赤子が小さく息をしている音だけが、その場にやわらかく残っていた。


「なぜ止めた」


「日が落ちてから、北側へ入るものではないと教えられております」


「誰に」


「先代の女官長にございます」


 答えは淀みなかった。まるで、何度も胸の内で繰り返してきた言葉を、そのまま口にしているようだった。


「理由は」


 そこで、ヘレナは初めて黙った。


 沈黙は短かった。だが、答えを知らない者の間ではない。知っているからこそ、どこまで口にすべきかを測っている沈黙だった。


 ルシアンは一歩も動かずに待った。


 急かせば、言葉は引き出せるかもしれない。けれど、その言葉が本当に必要なものかどうかは別だった。目の前の女官は、恐怖で崩れるような相手ではない。乱暴に詰めれば、扉はかえって固く閉じる。


「ヘレナ」


 リリアーナが静かに名を呼んだ。


 責める声ではなかった。だが、宮の主としての響きがあった。


「私の宮で起きていることです。答えられることは、答えてください」


 ヘレナの指先が、女官服の布をわずかに押さえた。


「申し訳ございません、リリアーナ殿下」


 深く頭を下げる。


「理由については、私からは申し上げられません」


 部屋の空気が、さらに静まった。


 ルシアンは目を細める。


「リリアーナ殿下の前でも、答えないのか」


「はい」


 ヘレナの声は震えていなかった。


「罰を受けることになってもか」


「それでも、でございます」


 その返答に、セレネがわずかに視線を動かした。言葉は挟まない。けれど、彼女も今の一言を聞き逃さなかったのだろう。


 ヘレナは、ただ命令に背いているのではない。


 何かを守っている。


 そう言い切るにはまだ早い。だが、少なくともこの沈黙は、自分の身を守るためのものではなかった。


「北側の鍵は君が管理しているのか」


「すべてではございません。けれど、古い部屋の鍵の一部は、私が預かっております」


「地下へ続く場所については」


 ヘレナは答えなかった。


 その顔に怯えはなかった。だが、伏せられていた茶色の瞳が、ゆっくりとルシアンへ向けられる。


 茶色の瞳が一瞬だけ揺れ、奥に淡い金が差したように見えた。


 光の加減かもしれない。


 けれど、その色は妙に目に残った。


「……私から申し上げられることは、北側には不用意に近づかぬように、ということだけでございます」


「それでは足りない」


「承知しております」


 ヘレナは静かに頭を下げた。


 分かっていて、それでも口を閉ざす。


 ルシアンは、その姿を見ながら、地下で見た白い布を思い出していた。布の下に眠っていた骨。小さな輪飾り。低い棚。壁に刻まれた細い傷。


 この女は、何を知っている。


 そして、何を語らないつもりなのか。


 ルシアンは短く息を吐いた。


「なら、今日はここまでだ」


 ヘレナがわずかに顔を上げる。


「逃げられると思うな。明日、改めて話を聞く。北側の鍵と、君が預かっている古い部屋の記録も用意しておけ」


「かしこまりました」


 その返事もまた、静かだった。

 静かすぎるほどに。

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