閉ざす女官①
地上へ戻ると、最初に頬へ触れたのは風だった。
地下の湿った空気から戻ったせいか、それだけで少し息がしやすい。けれど、胸の奥に残った重さまでは消えなかった。
ルシアンは振り返り、いま出てきた離宮を見た。
古びた壁も、木板で塞がれた窓も、何も変わっていない。それでも、その下に白い布が戻されていることを知った今では、建物の沈黙まで別のものに思えた。
「クライヴ」
「はい」
「地下入口は再封鎖しろ。香炉と輪飾りは分けて保管する。どちらも洗浄するな。香炉の灰もこぼすな」
「承知しました」
「地下の記録は、骨の位置図と生活跡の記録を混ぜるな。寝台、棚、器、壁の傷、床の継ぎ目は別にまとめろ。検骨役と、古物を扱える者も呼ぶ」
「承知しました」
クライヴは記録帳を閉じ、証拠品の確認に移った。
扉が閉じられ、鎖が戻される。封蝋を新しく押す音が、離宮の壁へ小さく響いた。
ルシアンは、もう一人の若い隊員へ視線を向けた。
「管理門の兵に伝えろ。見張りはこのまま継続。俺が戻るまで、誰も北側区域へ入れるな」
「白百合宮の方も、でしょうか」
「ああ。例外は作るな。工事人夫も、女官も、王太子宮の使いもだ。何か言われたら、俺の指示だと伝えろ」
「承知しました」
若い隊員は短く返事をし、管理門の方へ向かった。
ルシアンはもう一度、封じられた扉を見る。地下で見たものは、まだすべてが分かったわけではない。むしろ、見たことで分からないことが増えた。骨の数、寝台の数、器の数。小さな輪飾り。床の不自然な継ぎ目。白い香炉を置いた者の足取り。
どれも、今すぐ一つの答えにまとめるには早すぎる。
だが、白百合宮に戻れば、少なくとも一つは確かめられる。
夜に北側へ入るなと兵を止めた、年配の女官。
ルシアンが歩き出すと、セレネも隣へ並んだ。彼女の表情はいつも通り静かだったが、地下へ入る前より口数が少ない。白い布の前で、彼女の指先がわずかに握られた一瞬を、ルシアンは思い出した。
「大丈夫か」
問いかけると、セレネがこちらを見る。
「はい」
「即答するな」
「では、少し考えます」
「そういう意味じゃない」
ルシアンが眉を寄せると、セレネはわずかに視線を伏せた。からかっているわけではなさそうだった。彼女なりに答えを選んでいるのだと分かった。
「大丈夫かどうかで言えば、大丈夫です。ただ……見たものを、すぐには整理できません」
「君でもか」
「私でも、です」
静かな返答だった。
その言葉に、ルシアンは少しだけ息を吐いた。安心したわけではない。だが、セレネが何も感じていないのではないと、言葉で確かめられた気がした。
「白百合宮へ戻ったら、女官達に話を聞く」
「先ほど兵が言っていた、年配の女官ですね」
「ああ。北側の鍵や古い部屋の扱いを知っている者がいるなら、白百合宮の中で誰も知らないとは考えにくい」
「真正面から問い詰めれば、警戒されるかもしれません」
「あぁ……」
ルシアンは前を向いたまま、短く息を吐いた。
地下で見たものを思えば、すぐにでも問い詰めたい。だが、相手が白百合宮に長く仕える女官なら、乱暴に扱うわけにはいかない。彼女達は王太子妃の近くにいる。こちらの動き方ひとつで、リリアーナにまで不安が及ぶ。
それに、兵を止めた女官の言葉は、ただの隠蔽とは少し違って聞こえた。
日が落ちてから、あちらへ入るものではない。
危険だからではなく、昔からそう決まっているようだった、と兵は言った。
その言葉の硬さが、ルシアンの中に残っていた。
北側管理門まで戻ると、見張りの兵が姿勢を正した。先に向かった若い隊員が、すでに指示を伝えていたらしい。二人の兵の顔には緊張が戻っている。
「今の指示は聞いたな」
「はっ」
「俺が戻るまで、誰も通すな。理由を聞かれても答える必要はない。白百合宮の者が来ても、王太子宮の使いが来ても、俺の許可を待たせろ」
「承知しました」
兵が頭を下げる。
ルシアンは北側離宮群を振り返らなかった。振り返れば、またあの白い布を思い出す。思い出さずにいられるものではないが、今は地上で聞かなければならないことがある。
北園庭園を抜け、白百合宮の北側の扉へ戻る頃には、空気がまた変わっていた。庭の白い花が風に揺れ、噴水の水音が小さく響いている。ほんの少し前までは柔らかく見えたその景色が、今はどこか薄い膜をかけられたように感じられた。
扉の前で、白百合宮の女官が二人待っていた。
若い方は、ルシアン達の姿を見るとすぐに頭を下げた。もう一人は年嵩で、落ち着いた所作をしていたが、北側の門の方へは一度も目を向けなかった。見ないようにしている、というより、見る必要がないと知っているようだった。
「ルシアン殿下。お戻りでございますか」
「ああ。リリアーナ殿下に直接お会いする前に、確認したいことがある」
年嵩の女官のまぶたが、わずかに動いた。
「何でございましょうか」
「白百合宮の北側区域についてだ。古い部屋の鍵や管理を知っている者を呼べ」
年嵩の女官は、すぐには答えなかった。
若い女官が、困ったように隣を見る。ほんの一瞬のことだったが、ルシアンは見逃さなかった。知らないのではない。知っていて、答えられずにいる。
「心当たりがあるな」
「……わたくしからは、申し上げられません」
年嵩の女官は、静かに頭を下げた。
その声は怯えているというより、すでにそう答えると決めていた者の声だった。
「俺の問いに答えないつもりか」
「申し訳ございません」
「理由は」
「申し上げられません」
ルシアンは目を細めた。
白百合宮の女官とはいえ、相手は王族特務隊の調査を拒んでいる。場合によっては、命令違反として罰せられてもおかしくない。
それでも、女官は口を閉ざしている。
誰かをかばっているのか。
それとも、名を口にすることそのものに、何か別の重さがあるのか。
ただの忠義にしては、沈黙が頑なすぎた。
「罰を受けることになってもか」
女官の肩が、ほんのわずかに揺れた。
だが、顔は上げなかった。
「それでも、わたくしからは申し上げられません」
ルシアンはしばらく女官を見ていた。
問い詰めれば、名だけは引き出せるかもしれない。だが、無理に口を割らせたところで、その先まで話すとは思えなかった。
この女官は、ただ怯えて黙っているのではない。
何かを知っている。
それでも、口を開かない。
「分かった」
ルシアンは短く言った。
「リリアーナ殿下に確認する」
女官の指先が、かすかに震えた。
その反応だけで、ルシアンは自分の判断が間違っていないと分かった。
白百合宮の北側に眠っているものは、地下だけにあるわけではない。
この宮の女達の沈黙の中にも、まだ何かが残っている。
ルシアンは女官達をその場に残し、白百合宮の奥へ向かった。
廊下を進むにつれ、北側の空気は背後へ遠ざかっていく。床は磨かれ、壁には淡い花の刺繍が施された布が掛けられていた。窓から入る光は柔らかく、女官達の足音も控えめだった。どこを見ても、ここが赤子と母親を守るための宮であることが分かる。
だからこそ、先ほどの女官の沈黙が浮いていた。
この穏やかな宮の中で、誰かが北側の名を口にすることを拒んでいる。
それは地下の冷たさとは別の不気味さだった。
「ルシアン様」
セレネが隣で静かに声をかけた。
「リリアーナ殿下には、どこまでお話しされますか」
「すべては話さない」
ルシアンは前を向いたまま答えた。
「少なくとも、骨の状態や小さな遺骨のことは今は伏せる。産後のリリアーナ殿下に聞かせる話ではない」
「ですが、白百合宮の女官を動かすには、リリアーナ殿下のお言葉が必要になるかもしれません」
「ああ」
それが厄介だった。
リリアーナを守るために、何も知らせずに済ませたい。だが、ここは彼女の宮でもある。白百合宮の女官達は、王太子妃であるリリアーナの言葉を何より重く受け取るだろう。ルシアンの命令では口を閉ざした女官も、リリアーナの意思が示されれば、態度を変える可能性がある。
伝えすぎれば傷つける。
伏せすぎれば協力を得られない。
その加減を誤れば、調査そのものが歪む。
「白百合宮の北側に、古い管理を知る者がいる。だが、女官達が答えない。まずはそこだけ伝える」
「リリアーナ殿下なら、察されるかもしれません」
「だろうな」
リリアーナは王太子妃として、周囲の感情をよく見ている。白百合宮に移ってから、女官達が北側を避けていることにも気づいていた。ならば、ルシアンがこのタイミングで確認を求める意味を、まったく察しないはずがなかった。
部屋の前で、近衛女官が一礼した。
「ルシアン殿下。リリアーナ殿下にお目通りをご希望でございますか」
「急ぎ確認したいことがある。取り次いでくれ」
「かしこまりました」
近衛女官は深く一礼し、静かに扉の奥へ入った。
少しして、扉が開かれる。
室内は、先ほど訪れた時と同じように柔らかな光に満ちていた。窓際の薄布が風でわずかに揺れ、花の香りが淡く漂っている。リリアーナは長椅子に座っていた。赤子はそばの揺り籠で眠っているらしく、小さな寝息だけが聞こえた。
ルシアンが入ると、リリアーナはすぐに表情を変えた。
穏やかな微笑みが消えたわけではない。ただ、その奥にある芯が静かに前へ出た。
「北側で、何か分かったのですね」
その問いに、ルシアンはすぐには答えなかった。
彼女のそばにいる赤子へ視線が向きかけて、途中で止める。地下で見た白い布を、ここへ持ち込むべきではない。だが、完全に隠して話せることでもない。
「いくつか確認が必要です」
「私にできることがあるのですね」
「白百合宮の女官についてです」
リリアーナは、そっと膝の上で手を重ねた。
「やはり」
小さな声だった。
驚きよりも、どこか納得に近い響きがあった。
「心当たりがあるのですか」
「具体的なことまでは分かりません。けれど、北側のことになると、女官達の空気が変わることはありました」
リリアーナは視線を伏せる。
「怖がっている、というだけではないのです。若い女官は本当に何も知らない様子の者もいます。でも、長く仕えている者ほど、北側の話を避ける。私が尋ねても、昔からそういうものです、としか言わないのです」
昔からそういうもの。
兵が聞いた言葉とよく似ていた。
日が落ちてから、あちらへ入るものではない。
北側に関する言葉は、どれも理由を持たず、決まりだけが残っている。
「古い部屋の鍵や管理を知る者がいるはずです。ですが、尋ねても、女官が答えませんでした」
「ルシアンの問いにも?」
「ああ」
リリアーナの表情がわずかに硬くなる。
王族特務隊の調査に対し、白百合宮の女官が沈黙を選んだ。その意味を、彼女も理解したのだろう。
「罰を受ける可能性があっても、口を閉ざしました。だから、あなたに確認しに来ました」
リリアーナは、しばらく黙っていた。
外からは、庭を渡る風の音が聞こえる。揺り籠の中で赤子が小さく身じろぎし、そばに控えていた侍女がそっと布を直した。その仕草があまりにも穏やかで、ルシアンは一瞬、地下の暗さとの落差に息が詰まりそうになった。
「リリアーナ殿下」
セレネが静かに言った。
「ご負担をおかけしたいわけではありません。ただ、北側を知る方のお話を伺わなければ、調査は進まないと思います」
リリアーナはセレネを見た。
その目は静かだったが、迷いは薄れていた。
「分かっています」
リリアーナは静かに頷いた。
「ここは、今は私の宮です。私の名の下に仕えている者が、何かを知りながら口を閉ざしているのなら、それをそのままにはできません」
声は穏やかだった。
だが、その奥にははっきりとした強さがあった。
「北側で何が見つかったのか、すべてを今聞くべきではないのでしょうね」
ルシアンは答えなかった。
リリアーナは、それで十分だと受け取ったようだった。




