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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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閉ざす女官①

 地上へ戻ると、最初に頬へ触れたのは風だった。


 地下の湿った空気から戻ったせいか、それだけで少し息がしやすい。けれど、胸の奥に残った重さまでは消えなかった。


 ルシアンは振り返り、いま出てきた離宮を見た。


 古びた壁も、木板で塞がれた窓も、何も変わっていない。それでも、その下に白い布が戻されていることを知った今では、建物の沈黙まで別のものに思えた。


「クライヴ」


「はい」


「地下入口は再封鎖しろ。香炉と輪飾りは分けて保管する。どちらも洗浄するな。香炉の灰もこぼすな」


「承知しました」


「地下の記録は、骨の位置図と生活跡の記録を混ぜるな。寝台、棚、器、壁の傷、床の継ぎ目は別にまとめろ。検骨役と、古物を扱える者も呼ぶ」


「承知しました」


 クライヴは記録帳を閉じ、証拠品の確認に移った。


 扉が閉じられ、鎖が戻される。封蝋を新しく押す音が、離宮の壁へ小さく響いた。


 ルシアンは、もう一人の若い隊員へ視線を向けた。


「管理門の兵に伝えろ。見張りはこのまま継続。俺が戻るまで、誰も北側区域へ入れるな」


「白百合宮の方も、でしょうか」


「ああ。例外は作るな。工事人夫も、女官も、王太子宮の使いもだ。何か言われたら、俺の指示だと伝えろ」


「承知しました」


 若い隊員は短く返事をし、管理門の方へ向かった。


 ルシアンはもう一度、封じられた扉を見る。地下で見たものは、まだすべてが分かったわけではない。むしろ、見たことで分からないことが増えた。骨の数、寝台の数、器の数。小さな輪飾り。床の不自然な継ぎ目。白い香炉を置いた者の足取り。


 どれも、今すぐ一つの答えにまとめるには早すぎる。


 だが、白百合宮に戻れば、少なくとも一つは確かめられる。


 夜に北側へ入るなと兵を止めた、年配の女官。


 ルシアンが歩き出すと、セレネも隣へ並んだ。彼女の表情はいつも通り静かだったが、地下へ入る前より口数が少ない。白い布の前で、彼女の指先がわずかに握られた一瞬を、ルシアンは思い出した。


「大丈夫か」


 問いかけると、セレネがこちらを見る。


「はい」


「即答するな」


「では、少し考えます」


「そういう意味じゃない」


 ルシアンが眉を寄せると、セレネはわずかに視線を伏せた。からかっているわけではなさそうだった。彼女なりに答えを選んでいるのだと分かった。


「大丈夫かどうかで言えば、大丈夫です。ただ……見たものを、すぐには整理できません」


「君でもか」


「私でも、です」


 静かな返答だった。


 その言葉に、ルシアンは少しだけ息を吐いた。安心したわけではない。だが、セレネが何も感じていないのではないと、言葉で確かめられた気がした。


「白百合宮へ戻ったら、女官達に話を聞く」


「先ほど兵が言っていた、年配の女官ですね」


「ああ。北側の鍵や古い部屋の扱いを知っている者がいるなら、白百合宮の中で誰も知らないとは考えにくい」


「真正面から問い詰めれば、警戒されるかもしれません」


「あぁ……」


 ルシアンは前を向いたまま、短く息を吐いた。


 地下で見たものを思えば、すぐにでも問い詰めたい。だが、相手が白百合宮に長く仕える女官なら、乱暴に扱うわけにはいかない。彼女達は王太子妃の近くにいる。こちらの動き方ひとつで、リリアーナにまで不安が及ぶ。


 それに、兵を止めた女官の言葉は、ただの隠蔽とは少し違って聞こえた。


 日が落ちてから、あちらへ入るものではない。


 危険だからではなく、昔からそう決まっているようだった、と兵は言った。


 その言葉の硬さが、ルシアンの中に残っていた。


 北側管理門まで戻ると、見張りの兵が姿勢を正した。先に向かった若い隊員が、すでに指示を伝えていたらしい。二人の兵の顔には緊張が戻っている。


「今の指示は聞いたな」


「はっ」


「俺が戻るまで、誰も通すな。理由を聞かれても答える必要はない。白百合宮の者が来ても、王太子宮の使いが来ても、俺の許可を待たせろ」


「承知しました」


 兵が頭を下げる。


 ルシアンは北側離宮群を振り返らなかった。振り返れば、またあの白い布を思い出す。思い出さずにいられるものではないが、今は地上で聞かなければならないことがある。


 北園庭園を抜け、白百合宮の北側の扉へ戻る頃には、空気がまた変わっていた。庭の白い花が風に揺れ、噴水の水音が小さく響いている。ほんの少し前までは柔らかく見えたその景色が、今はどこか薄い膜をかけられたように感じられた。


 扉の前で、白百合宮の女官が二人待っていた。


 若い方は、ルシアン達の姿を見るとすぐに頭を下げた。もう一人は年嵩で、落ち着いた所作をしていたが、北側の門の方へは一度も目を向けなかった。見ないようにしている、というより、見る必要がないと知っているようだった。


「ルシアン殿下。お戻りでございますか」


「ああ。リリアーナ殿下に直接お会いする前に、確認したいことがある」


 年嵩の女官のまぶたが、わずかに動いた。


「何でございましょうか」


「白百合宮の北側区域についてだ。古い部屋の鍵や管理を知っている者を呼べ」


 年嵩の女官は、すぐには答えなかった。


 若い女官が、困ったように隣を見る。ほんの一瞬のことだったが、ルシアンは見逃さなかった。知らないのではない。知っていて、答えられずにいる。


「心当たりがあるな」


「……わたくしからは、申し上げられません」


 年嵩の女官は、静かに頭を下げた。


 その声は怯えているというより、すでにそう答えると決めていた者の声だった。


「俺の問いに答えないつもりか」


「申し訳ございません」


「理由は」


「申し上げられません」


 ルシアンは目を細めた。


 白百合宮の女官とはいえ、相手は王族特務隊の調査を拒んでいる。場合によっては、命令違反として罰せられてもおかしくない。


 それでも、女官は口を閉ざしている。


 誰かをかばっているのか。


 それとも、名を口にすることそのものに、何か別の重さがあるのか。


 ただの忠義にしては、沈黙が頑なすぎた。


「罰を受けることになってもか」


 女官の肩が、ほんのわずかに揺れた。


 だが、顔は上げなかった。


「それでも、わたくしからは申し上げられません」


 ルシアンはしばらく女官を見ていた。


 問い詰めれば、名だけは引き出せるかもしれない。だが、無理に口を割らせたところで、その先まで話すとは思えなかった。


 この女官は、ただ怯えて黙っているのではない。


 何かを知っている。


 それでも、口を開かない。


「分かった」


 ルシアンは短く言った。


「リリアーナ殿下に確認する」


 女官の指先が、かすかに震えた。


 その反応だけで、ルシアンは自分の判断が間違っていないと分かった。


 白百合宮の北側に眠っているものは、地下だけにあるわけではない。


 この宮の女達の沈黙の中にも、まだ何かが残っている。


 ルシアンは女官達をその場に残し、白百合宮の奥へ向かった。


 廊下を進むにつれ、北側の空気は背後へ遠ざかっていく。床は磨かれ、壁には淡い花の刺繍が施された布が掛けられていた。窓から入る光は柔らかく、女官達の足音も控えめだった。どこを見ても、ここが赤子と母親を守るための宮であることが分かる。


 だからこそ、先ほどの女官の沈黙が浮いていた。


 この穏やかな宮の中で、誰かが北側の名を口にすることを拒んでいる。


 それは地下の冷たさとは別の不気味さだった。


「ルシアン様」


 セレネが隣で静かに声をかけた。


「リリアーナ殿下には、どこまでお話しされますか」


「すべては話さない」


 ルシアンは前を向いたまま答えた。


「少なくとも、骨の状態や小さな遺骨のことは今は伏せる。産後のリリアーナ殿下に聞かせる話ではない」


「ですが、白百合宮の女官を動かすには、リリアーナ殿下のお言葉が必要になるかもしれません」


「ああ」


 それが厄介だった。


 リリアーナを守るために、何も知らせずに済ませたい。だが、ここは彼女の宮でもある。白百合宮の女官達は、王太子妃であるリリアーナの言葉を何より重く受け取るだろう。ルシアンの命令では口を閉ざした女官も、リリアーナの意思が示されれば、態度を変える可能性がある。


 伝えすぎれば傷つける。


 伏せすぎれば協力を得られない。


 その加減を誤れば、調査そのものが歪む。


「白百合宮の北側に、古い管理を知る者がいる。だが、女官達が答えない。まずはそこだけ伝える」


「リリアーナ殿下なら、察されるかもしれません」


「だろうな」


 リリアーナは王太子妃として、周囲の感情をよく見ている。白百合宮に移ってから、女官達が北側を避けていることにも気づいていた。ならば、ルシアンがこのタイミングで確認を求める意味を、まったく察しないはずがなかった。


 部屋の前で、近衛女官が一礼した。


「ルシアン殿下。リリアーナ殿下にお目通りをご希望でございますか」


「急ぎ確認したいことがある。取り次いでくれ」


「かしこまりました」


 近衛女官は深く一礼し、静かに扉の奥へ入った。


 少しして、扉が開かれる。


 室内は、先ほど訪れた時と同じように柔らかな光に満ちていた。窓際の薄布が風でわずかに揺れ、花の香りが淡く漂っている。リリアーナは長椅子に座っていた。赤子はそばの揺り籠で眠っているらしく、小さな寝息だけが聞こえた。


 ルシアンが入ると、リリアーナはすぐに表情を変えた。


 穏やかな微笑みが消えたわけではない。ただ、その奥にある芯が静かに前へ出た。


「北側で、何か分かったのですね」


 その問いに、ルシアンはすぐには答えなかった。


 彼女のそばにいる赤子へ視線が向きかけて、途中で止める。地下で見た白い布を、ここへ持ち込むべきではない。だが、完全に隠して話せることでもない。


「いくつか確認が必要です」


「私にできることがあるのですね」


「白百合宮の女官についてです」


 リリアーナは、そっと膝の上で手を重ねた。


「やはり」


 小さな声だった。


 驚きよりも、どこか納得に近い響きがあった。


「心当たりがあるのですか」


「具体的なことまでは分かりません。けれど、北側のことになると、女官達の空気が変わることはありました」


 リリアーナは視線を伏せる。


「怖がっている、というだけではないのです。若い女官は本当に何も知らない様子の者もいます。でも、長く仕えている者ほど、北側の話を避ける。私が尋ねても、昔からそういうものです、としか言わないのです」


 昔からそういうもの。


 兵が聞いた言葉とよく似ていた。


 日が落ちてから、あちらへ入るものではない。


 北側に関する言葉は、どれも理由を持たず、決まりだけが残っている。


「古い部屋の鍵や管理を知る者がいるはずです。ですが、尋ねても、女官が答えませんでした」


「ルシアンの問いにも?」


「ああ」


 リリアーナの表情がわずかに硬くなる。


 王族特務隊の調査に対し、白百合宮の女官が沈黙を選んだ。その意味を、彼女も理解したのだろう。


「罰を受ける可能性があっても、口を閉ざしました。だから、あなたに確認しに来ました」


 リリアーナは、しばらく黙っていた。


 外からは、庭を渡る風の音が聞こえる。揺り籠の中で赤子が小さく身じろぎし、そばに控えていた侍女がそっと布を直した。その仕草があまりにも穏やかで、ルシアンは一瞬、地下の暗さとの落差に息が詰まりそうになった。


「リリアーナ殿下」


 セレネが静かに言った。


「ご負担をおかけしたいわけではありません。ただ、北側を知る方のお話を伺わなければ、調査は進まないと思います」


 リリアーナはセレネを見た。


 その目は静かだったが、迷いは薄れていた。


「分かっています」


 リリアーナは静かに頷いた。


「ここは、今は私の宮です。私の名の下に仕えている者が、何かを知りながら口を閉ざしているのなら、それをそのままにはできません」


 声は穏やかだった。


 だが、その奥にははっきりとした強さがあった。


「北側で何が見つかったのか、すべてを今聞くべきではないのでしょうね」


 ルシアンは答えなかった。


 リリアーナは、それで十分だと受け取ったようだった。

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