白い布の下
縄の向こうへ進む前に、ルシアンは足元を確かめた。
床には薄く土が積もっている。だが、白い布が置かれている一角だけは、すでに人の手が入っていた。工事人夫が不用意に踏み込まないよう木杭と縄で囲われ、布のそばには番号を振られた木札が置かれている。
「クライヴ」
「はい」
「布を上げる前の状態を記録しろ。位置、木札の番号、周囲の土の崩れ方もだ」
「承知しました」
クライヴが記録帳を持ち直す。地下に、筆先が紙を擦る音だけが小さく響いた。
ルシアンは布の前に立った。
地下の土と古い石の中で、その白さだけが妙に浮いて見える。調査のために被せられたものだと分かっていても、眠っているものを隠しているようにも、これ以上傷つけないよう覆っているようにも見えた。
ルシアンは膝を折り、布の端へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、ここへ来る途中に見た寝台と小さな器が頭をよぎる。
布の下にあるものは、ただの証拠ではない。
ルシアンは短く息を吐いた。
「上げる」
布をゆっくりめくる。
灯りが届いた。
そこにあったのは、一体分の骨だった。
白く乾いた骨ではなく、ところどころ土の色を含んでいる。地下の床に長く沈んでいたせいか、石や土と同じ色に馴染みかけていた。頭部らしきものは少し横を向き、腕の骨は胸元の近くに寄っている。脚はまっすぐではなく、片方だけわずかに曲がっていた。
乱暴に投げ込まれたようには見えなかった。
だが、正式な埋葬にも見えない。
棺はない。墓標もない。祈りの言葉を刻んだ石もない。ただ、地下の一角に横たえられ、土をかぶせられ、長い時間の中でそのまま沈んでいったようだった。
「……置かれているな」
ルシアンは低く言った。
「はい」
セレネも少し離れた位置に膝をついた。触れはしない。骨そのものより、周囲の土や、残された布の繊維らしきものを見ている。
「少なくとも、この一体については、投げ捨てられたようには見えません」
「丁寧に葬った、というほどでもない」
「ええ」
短いやり取りだった。
それだけで十分だった。
ここにあるのは、弔いと放置の間のようなものだった。誰かが形だけでも横たえたのか。あるいは、形以上のことを許されなかったのか。今はまだ分からない。
「次を」
隊員が隣の布をめくる。
今度は、先ほどより小さかった。
ルシアンは一瞬、息を止めた。
骨の一つ一つが細い。大人のものとは違うように見える。もちろん、正式には検骨役の確認が必要だ。だが、報告書にあった子供の骨という言葉が、ここで急に形を持った。
布の下には、小さな骨が横たわっていた。
その近くに、大人のものらしき骨の一部がある。寄り添うようにも見える。けれど、実際にそう置かれたのか、長い時間の中で土が動いたのかは分からない。
ルシアンは、その場で言葉にするのをやめた。
セレネも何も言わなかった。
ただ、彼女の指先がわずかに握られるのを、ルシアンは見た。ほんの一瞬だった。すぐに彼女は手を戻し、表情も崩さなかった。けれど、それだけで十分だった。
何も感じていないわけではない。
ルシアンは視線を布の下へ戻した。
白百合宮の部屋で見た赤子の手を思い出す。
リリアーナの腕の中で眠っていた、まだ何も知らない小さな命。柔らかな布に包まれ、周囲の者達が息をひそめるように守っていた。その姿と、今目の前にある小さな骨が、頭の中で重なりかける。
ルシアンは奥歯を噛んだ。
重ねてはいけない。
目の前の骨を、誰か別の子供の影で見てはいけない。
けれど、思い出さずにはいられなかった。
「……記録しろ」
声が少し低くなった。
「位置、向き、周囲の遺物。大人の骨との距離も」
「はい」
クライヴの返事も、わずかに硬かった。
さらに布が上げられていく。
ひとつ、またひとつ。
すべてが同じように横たえられているわけではなかった。体の向きが揃っているものもあれば、少しずれたものもある。土の高さも違う。古くからそこにあったものと、後の時代に加えられたものが混じっているようにも見えた。
ここへ、一度に全員が埋められたわけではない。
その可能性は、すでに報告で聞いていた。だが、実際に目にすると重さが違った。もし時期が違うのなら、この地下は一度だけの事件現場ではない。何度も、何年も、あるいはもっと長く、同じ場所に人が横たえられていたことになる。
「奥はどこまで確認した」
若い隊員が答える。
「布をかけた範囲までです。その先は崩落の危険があり、工事人夫も入っていません」
「無理に進むな。まずここを確定する」
「はい」
ルシアンは、骨の置かれた場所から視線を戻した。
先ほど見た寝台や棚、火を使った跡は、ここから遠くない。生きるための場所と、死者が横たえられた場所が、同じ地下の中にある。
その近さが、嫌だった。
「ここで死んだのか」
ルシアンは呟いた。
セレネが視線を上げる。
「それとも、亡くなった後にここへ運ばれたのか。今はまだ分かりません」
「だが、地上の墓には行かなかった」
「はい」
その返事は静かだった。
普通の墓には葬られなかった者達。
墓に名を刻まれず、地上の祈りにも出されず、王宮の地下へ沈められた者達。
ルシアンは、床に置かれた木札を見た。
骨を動かさずに位置を残すため、先に入った調査役が置いたものだろう。赤い墨で振られた番号が、灯りの中で不自然に鮮やかに見えた。
名前ではなく、番号。
調査には必要なことだと分かっている。だが、そのことが今はひどく味気なく思えた。
「名前は」
クライヴが筆を止めた。
「現時点では、確認されておりません」
「……そうか」
ルシアンは短く返した。
分かっている。
まだ何も分かるはずがない。骨は地中から出たばかりで、遺品もほとんど確認されていない。名前を知りたいと言ったところで、すぐに答えが返るはずもない。
それでも、木札の番号だけでは足りなかった。
ここにいた者達には、名前があったはずだ。誰かに呼ばれた名があり、誰かが覚えていた声があったはずだ。それを消されたまま、骨の数だけを数えて終わらせるわけにはいかない。
セレネが、静かに言った。
「骨の数だけを先に追うと、見落とすかもしれません」
「何を」
「ここで暮らしていた人達と、ここに葬られた人達が、同じとは限りません」
ルシアンは彼女を見た。
セレネの目は、白い布の下ではなく、ここへ来る途中の通路へ向けられていた。
「寝台の数、器の数、棚の高さ、骨の数。それぞれが一致するかどうかを見た方がいいと思います。もし一致しなければ、ここは単純に閉じ込められた人達の最後の場所ではなく、別の意味を持ちます」
「別の意味?」
「誰がここにいて、誰がここへ運ばれたのか。その違いです」
ルシアンは答えなかった。
骨がある場所と、寝台のある場所。
その二つが近いせいで、同じ人間の痕跡だと思いかけていた。だが、確かにそうとは限らない。ここで暮らした者がここで死んだのか。別の場所で死んだ者がここへ運ばれたのか。あるいは、生きていた者が死者をここに葬ったのか。
組み合わせが変われば、この地下の意味も変わる。
ルシアンはクライヴへ視線を向けた。
「骨の位置図とは別に、寝台と棚と器の数を記録しろ」
「承知しました」
次に、もう一人の隊員を見る。
「お前は左側の区画を見ろ。寝台の数、器の種類、棚の位置。触れずに確認できるものだけでいい」
「承知しました」
「クライヴは右側と通路側だ。二人で照合しろ。数が合わなければ、その場で俺に言え」
「はい」
クライヴは短く答え、記録帳を持ち直した。
「同じものを二度数えるな。骨の記録と混ぜるな。ここにあった生活の跡と、眠っていた骨の位置は、別々に残せ」
「承知しました」
二人がそれぞれの持ち場へ動く。
灯りが分かれ、地下の壁に影が伸びた。左側へ進む隊員の足音と、クライヴの筆が走る音が、別々の方向から聞こえてくる。ルシアンはその音を聞きながら、再び白い布の一つへ視線を落とした。
そのそばに、小さなものが落ちていた。
最初は石片かと思った。だが、灯りを近づけると、細い輪のようにも見える。金属か、硬い木か。土に埋もれていて、すぐには分からない。子供の腕輪のように見えなくもないが、そう決めるには早かった。
「触るな」
ルシアンが言うより先に、セレネの視線もそこへ向いていた。
「輪飾りでしょうか」
「分からない。記録してから回収させる」
クライヴが位置を記す。隊員が細い道具で周囲の土を慎重に払うと、それは小さな輪だった。完全な円ではなく、一部が欠けている。表面には模様らしき浅い線があるが、土と錆でほとんど見えない。
ルシアンは、それを布へ乗せさせた。
軽い音もしなかった。
ただの装飾品かもしれない。持ち主を示すものではないかもしれない。だが、骨のそばに残っていた小さな輪は、ここにいた誰かがただ数として処理される存在ではなかったことを、かすかに主張しているように見えた。
「保管しろ。洗浄は専門の者にさせる」
「はい」
セレネは輪飾りを見つめたまま、低く言った。
「遺品が残っているなら、身元に近づけるかもしれません」
「残っていればな」
「はい」
短い返事だった。
身元を知る手がかりがあることは救いかもしれない。けれど、それは同時に、ここで眠っていた者達が誰かに消されたことを証明するものにもなる。
ルシアンは、白い布がかけ直されていくのを見ていた。
布の下に戻されるたび、骨は再び見えなくなる。けれど、一度見てしまったものは消えない。小さな骨。胸元に寄せられた腕。壁際に横たえられた者。土に埋もれた輪飾り。
この地下に、死があった。
それはもう分かっていた。
だが、今見えたのは死だけではなかった。
誰かが横たえ、誰かが布をかけ、誰かが記録から外した後も、物だけがわずかに残っていた。その残り方が、あまりに静かで、かえって胸に引っかかった。
「戻るぞ」
ルシアンは言った。
隊員が少し驚いたように顔を上げる。
「よろしいのですか」
「今日はこれ以上、奥へは進まない。崩落の危険もある。先に人を揃える」
それだけではなかった。
ここから先へ踏み込むには、骨を見るための目だけでは足りない。地下構造を見る者、検骨役、古い布や金属を扱える者、そして白百合宮の古いしきたりを知る者。必要なものが多すぎる。
何より、今見たものを一度地上へ持ち帰らなければならなかった。
「白百合宮へ戻る。女官達から話を聞く」
セレネが静かに頷いた。
「北側を知る方ですね」
「ああ」
ルシアンは振り返り、白い布の並ぶ一角をもう一度見た。
日が落ちてから、あちらへ入るものではない。
兵が聞いたという年配の女官の言葉が、耳の奥で蘇る。
あれは脅しだったのか。
忠告だったのか。
それとも、長い間守られてきた決まりを、今も繰り返しただけなのか。
ルシアンは灯りを持つ隊員に合図した。
地下の奥で、炎が小さく揺れた。
白い布は、再び静かに眠っている。
だが、もうただ眠らせておくわけにはいかなかった。




