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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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眠る部屋

 白い香炉は、証拠として回収させた。


 灰がこぼれないよう布で包ませ、小箱へ収める。クライヴが香炉のあった位置と棚の高さを記録している間、ルシアンは崩落した床の前に立っていた。


 今、確かめるべきものは、その下にある。


 床の崩落箇所には、工事人夫が応急的に渡した板が残されていた。縄で囲われ、危険を示す札が立てられている。だが、板の下を覗けば、粗く削られた石段が暗がりへ向かって続いているのが見えた。


「先に足場を確認しろ」


 ルシアンが命じると、若い隊員が灯りを持って穴の縁へ近づいた。腰に縄を結び、崩れた床材へ足をかけないよう慎重に身を沈める。古い石が小さく鳴り、乾いた土が一つ、二つと下へ落ちた。すぐに落下音が返ってきたことで、深さはそこまでないと分かる。だが、浅いから安全というわけではなかった。


「上から三段目が崩れています。壁側へ寄れば降りられますが、石が浮いています」


「分かった。縄はそのまま固定しておけ」


 隊員が返事をし、クライヴが崩落箇所の状態を記録する。筆が止まるたび、古い部屋の静けさが戻った。床の穴から上がってくる空気は冷たい。風と呼ぶほどの流れではないが、肌に触れるたび、地上とは違う場所へつながっていることを思い出させた。


 ルシアンはセレネへ視線を向けた。


「君は俺の後ろだ。足元だけ見て降りろ」


「承知しました」


 返事はいつも通りだった。けれど、崩れた床の縁に立つ彼女の細い靴先を見て、ルシアンはわずかに眉を寄せた。


「怖ければ、無理に降りなくていい」


 セレネが少しだけ目を瞬かせる。


「怖いかどうかで判断する場面ではないと思います」


「そういう返しをすると思った」


 ルシアンは小さく息を吐いた。


「だから言っている。怖いなら怖いでいい。足が止まるほどなら、先に言え」


 セレネは一瞬だけ黙り、それから静かに頷いた。


「分かりました。その時は、ちゃんと言います」


「……ならいい」


 それ以上は言わなかった。


 縄を掴み、石段へ足を下ろす。


 最初の一段は思ったより低かった。だが、二段目からは幅が狭くなる。王族が使うために造られた階段ではない。衣装の裾を気にしながら優雅に降りる場所ではなく、人目を避け、必要な者だけが身をかがめて通るための道だった。壁に手をつくと、湿った冷たさが手袋越しにも伝わってくる。


 下へ降りるにつれ、上の部屋の明かりが遠くなった。


 香の甘さは薄れ、代わりに湿った石と古い木の匂いが濃くなる。長く閉じ込められていた空気が、灯りに押されるようにゆっくり動いた。吸い込むたびに、喉の奥へ細かな埃が触れる。ルシアンは浅く息を整えながら、最後の段へ足を下ろした。


 そこは、想像していたよりも部屋に近かった。


 ただの地下通路ではない。低い天井の下に、人が立ち、物を置き、留まるための空間が広がっている。壁は粗い石積みで、漆喰の残る部分と剥がれ落ちた部分が斑になっていた。床には薄く土が積もっているが、完全に自然へ戻った場所ではない。灯りを動かすと、壁際に古い燭台の金具が残り、奥には木製の台が並んでいるのが見えた。


 報告書で読むのと、実際に立つのとでは違った。


 紙に書かれた寝台という文字は、ただの情報でしかない。だが、目の前にある木組みは、誰かの身体の重みを受けた形で残っていた。湿気に黒ずんだ脚、片側だけ沈んだ板、崩れた布の塊。すべてが古く、今にも壊れそうなのに、そこに人が横たわっていた時間だけは消えずに残っている。


 ルシアンはすぐに近づかなかった。


 まず灯りを広げるよう隊員に指示し、床の状態を見る。寝台の周囲は、他の場所より土が固くなっていた。長い間、人が行き来したのかもしれない。あるいは、後に入った者達が調査のために踏み固めたのかもしれない。どちらにせよ、今ここで不用意に踏み荒らすわけにはいかなかった。


「動かすな。足跡もできるだけ増やすな」


「はい」


 隊員達が慎重に位置を変える。灯りの輪が広がると、寝台は一つではないことが分かった。壁に沿っていくつも並び、それぞれの間にはわずかな距離がある。病人を休ませる部屋のようにも見える。だが、病人を置くなら、なぜ地下なのか。牢なら、なぜ鉄格子も鎖も見当たらないのか。居室なら、なぜ窓がないのか。


 どれか一つに当てはめようとすると、必ずどこかが合わなかった。


「……整いすぎているな」


 ルシアンが低く言うと、隣へ降りてきたセレネが、部屋の奥へ視線を向けた。


「はい」


「閉じ込めるだけなら、ここまで整える必要はない。だが、暮らす場所にしては逃げ道が少なすぎる」


 セレネはすぐには答えなかった。寝台、壁の金具、棚の位置、床の跡を順に見ている。その沈黙は、考えていない沈黙ではない。言葉にする前に、目の前のものを急いで結論へ押し込まないための沈黙だった。


「長く留めるための場所、でしょうか」


「留める?」


「はい。すぐに死なせるためでも、自由に過ごさせるためでもなく、外へ出さないまま時間を過ごさせる場所です」


 その言い方に、ルシアンは眉を寄せた。


 外へ出さないまま、時間を過ごさせる。


 穏やかな言葉ではない。だが、目の前の部屋には、そうとしか言えない冷たさがあった。乱暴に放り込まれた場所なら、もっと壊れた跡が残るだろう。ここには、最低限の秩序がある。寝台が並べられ、火を扱う場所があり、棚や器が置かれている。誰かが考え、誰かが整えたのだ。


 そのことが、かえって気味悪かった。


 怒りや混乱の跡なら、まだ人間の感情が見える。だが、ここにあるのは感情ではなく、手順に近い。人を地上から切り離し、その後も息を続けさせるための形が、淡々と残っている。


「殿下、こちらを」


 クライヴの声がした。


 彼は壁際の棚の前で足を止めていた。灯りを向けると、低い位置に取り付けられた棚が見える。立ったまま使うには低い。座った状態なら手が届きやすいが、あえてその高さにした理由は分からなかった。


 棚には、欠けた器がいくつか残っている。大きな椀、浅い皿、取っ手のない壺。その奥に、小さな器が一つ伏せられていた。


 ルシアンはそれを見た。


 大きさだけで決めつけることはできない。薬を入れる器かもしれないし、香や顔料を分けるためのものかもしれない。けれど、他の器に比べると、明らかに小さい。周囲にあるものがすべて古びて色を失っているせいで、その小ささだけが妙に生々しく見えた。


「低い棚。器が複数。小型の器が一つ。場所を記録しろ」


「承知しました」


 クライヴが短く返事をして、筆を走らせる。


 セレネは小さな器を見つめたまま、静かに言った。


「大人だけの場所なら、この高さである必要は薄いかもしれません」


「子供用だと?」


「可能性の一つです。今はまだ、そう見えるものがあるというだけですが」


 ルシアンは頷いた。


 ここで子供の骨が見つかったという報告は、すでに受けている。だからこそ、目に入る小さなものをすべて子供と結びつけるのは危うかった。先に知った情報に引きずられれば、現場を見誤る。そう分かっているのに、ルシアンの視線は小さな器からしばらく離れなかった。


 この地下に子供がいたのだとしたら、その子は何を見て育ったのか。


 地上の庭を知っていたのか。白い花の匂いを嗅いだことがあったのか。自分がなぜここにいるのか、誰かに説明されたことがあったのか。


 考えても答えは出ない。


 ルシアンは奥へ視線を移した。


 部屋の先には、低い通路が続いていた。天井はさらに下がり、大人がまっすぐ歩くには少し窮屈そうだった。壁には、何度も手をついたような擦れ跡が残っている。灯りを近づけると、その中に細い傷がいくつも刻まれているのが見えた。


 ルシアンは足を止めた。


 縦に引かれた線が並び、ところどころ横線で区切られている。数を数えるための跡のようにも見えるが、すぐにそうだとは言えない。工事人夫がつけたものかもしれない。もっと古い時代の印かもしれない。意味のある傷と、偶然できた傷は、暗い場所ではよく似ている。


 それでも、目が離せなかった。


 もし、ここで日を数えた者がいたのなら。


 その者は、何を待っていたのだろう。


 帰れる日か。誰かが迎えに来る日か。それとも、もう何も起きないと分かっていながら、それでも一日を刻むことで、自分がまだ消えていないと確かめていたのか。


 胸の奥に重いものが沈む。


 王宮の歴史は、いつも整った文字で残される。誰が即位し、誰が嫁ぎ、誰が生まれ、誰が亡くなったのか。年号と名前と儀式の記録。そこに書かれたものだけを見れば、王家は秩序ある血筋として続いてきたように見える。


 だが、ここにある傷は、その文字の外側にあった。


 名を残されなかった者が、石に何かを刻んでいたのだとしたら。


 ルシアンは、手袋越しに壁へ触れかけ、途中で止めた。


「記録だけ取れ。触るな」


「はい」


 クライヴの声が、少し後ろから返る。


 さらに奥へ進むと、空間はわずかに広がった。壁際には壊れた箱があり、中には布の残骸のようなものが詰まっている。衣類だったのか、寝具だったのか、今の状態では分からない。布は湿気を吸って固まり、色もほとんど失われていた。けれど、その端に細い刺繍らしきものが残っているのを見つけた時、ルシアンは思わず足を止めた。


 豪華なものではない。


 むしろ、控えめな模様だった。布の縁に小さな花のような形が繰り返されている。灯りの角度を変えなければ、見落としてしまうほどかすかな跡だった。


 誰かが、ここへ持ち込んだのか。


 それとも、ここで使うために与えられたのか。


 同じ布でも、意味はまるで違う。


「この箱も記録しろ。布には触れるな。後で保存できる者を呼ぶ」


「承知しました」


 ルシアンはその場を離れた。


 歩くたび、床の土がわずかに沈む。上からはほとんど音が届かない。地上の工事現場の気配も、白百合宮の女官達の足音も、ここまでは落ちてこなかった。地下にいると、時間の流れが違うように感じる。外では日が傾き、風が庭を渡っているはずなのに、この場所だけは長い間、同じ暗さの中で息を潜めていたようだった。


「ルシアン様」


 セレネが呼んだ。


 彼女は少し先で、床の一部を見ていた。灯りを近づけると、そこだけ石の色が違う。床材が後から補われたようにも見えるが、隙間の形が不自然だった。通路の幅に対して、石の継ぎ目がまっすぐすぎる。


「開くと思うか」


「分かりません。ただ、元から床だったにしては、周囲の石と馴染み方が違います」


 ルシアンはしゃがみ込み、石の継ぎ目を見た。指先を入れるほどの隙間はない。だが、周囲の石に比べて、表面の摩耗が少ない。長く同じ場所にあったものなら、もう少し周囲と揃っているはずだ。


「別の入口か、塞がれた通路か」


「そのどちらかかもしれません」


 今ここでこじ開けるべきではない。


「印をつけろ。後で構造を見られる者を呼ぶ」


 ルシアンが命じると、隊員が木札を置いた。


 その時、さらに奥へ出ていた若い隊員が足を止めた。


「殿下」


 声が低かった。


 ルシアンはすぐに顔を上げる。


 通路の先で、灯りが揺れていた。そこから奥は少し広い空間になっているらしい。入口の手前には縄が張られ、工事人夫が立ち入らないよう木杭が打たれている。木杭には布が結ばれ、その向こうの一角には白い布がかけられていた。


 布は一枚ではない。


 いくつかの盛り上がりを覆うように、間隔をあけて置かれている。周囲には調査用の木札が並び、その一つには赤い墨で番号が振られていた。


 ルシアンは足を止めた。


 縄の向こうに、白い布がいくつか伏せられている。床に並ぶ木札には、赤い墨で番号が振られていた。


 灯りが届いたのは、布の端までだった。


 それ以上を照らす前に、ルシアンはそこが骨の見つかった場所なのだと理解した。


 隣で、セレネも黙っている。


 報告書では、大量の骨と書かれていた。女性のものが多く、子供の骨と思われるものもある。そう読んだ時、ルシアンは怒りとも嫌悪ともつかないものを覚えた。だが、ここへ来るまでに見た寝台や器、低い棚や壁の傷が、その言葉の重さを変えていた。


 骨だけを見るなら、死者の数を数えることになる。


 だが、その前にここには、生きていた者達の時間があった。


 それを見ずに布を剥がせば、彼女達をただの証拠品として扱ってしまう気がした。


 ルシアンは、ゆっくり息を吐いた。


「ここから先は、さらに慎重に入る」


 声は自然と低くなった。


「布には触れるな。木札も動かすな。まず周囲を確認する」


「承知しました」


 クライヴが答え、筆を握り直す音がした。


 ルシアンは一歩だけ前へ進み、縄の手前で足を止めた。


 白い布の向こうを、いずれ確かめなければならない。


 だが、ここまで来る途中に見た寝台や器、壁の傷が、足を急がせなかった。


 骨を見る前に、ここで何が続いていたのかを見なければならない。


 灯りの炎が、小さく揺れた。


 白い布の影が、地下の床にかすかに伸びる。


 ルシアンはその影を見つめたまま、しばらく動かなかった。

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