白百合宮の北側
白百合宮の北側へ向かうには、宮の奥を進むのではなく、北側の扉から一度、庭へ出る必要があった。
リリアーナが静養している白百合宮の内側は、赤子を迎えたばかりの宮らしく、空気そのものが柔らかかった。廊下には清潔な布の匂いが漂い、侍女達は扉の開け閉めにさえ気を配っている。人の声は低く抑えられ、足音も磨かれた床へ吸い込まれるように静かだった。王宮の中であれほど多くの人が動いていながら、騒がしさではなく、守られているものの気配だけが残っている。
けれど、北側の扉を抜けた瞬間、その穏やかさは背後へ遠ざかった。
外へ出ると、目の前には北園庭園が広がっていた。白百合宮の裏手にあるその庭は、表側ほど華やかではないが、通路はきちんと整えられ、中央には小さな噴水がある。低い生垣が幾何学的に刈り込まれ、白い花の植え込みが風に揺れていた。だが、庭のさらに奥へ視線を向けると、そこだけ空気が変わって見える。北側管理門の向こうには、布で覆われた足場や、積み上げられた木材が見えた。
その先が、北側離宮群だった。
ルシアンは手にした見取り図を見下ろし、実際の道筋と照らし合わせた。白百合宮から北へ出て、北園庭園を抜け、北側管理門を通る。その向こうに、かつて後宮の一部として使われていた離宮群がある。城全体の中では白百合宮の北側に位置するが、同じ宮の延長というより、庭と門を挟んで切り離された区域だった。
さらにその奥には、王城の北壁と北の門がある。
高い城壁の上に見える北の門は、王都へ開かれた正門とは違い、どこか閉ざされた印象を持っていた。白百合宮の柔らかな白さと、北側離宮群のくすんだ屋根、そしてその背後にそびえる城壁。その並びを見ていると、この場所が王城の奥へ押しやられたものを抱えているように思えた。
今回、同行させた特務隊員は二人だけだった。大人数で動けば、白百合宮の女官達に余計な不安を与える。だが、封鎖区域に入る以上、ルシアンとセレネだけで進むわけにもいかない。
その一人が、クライヴ・アーヴィンだった。
クライヴは、余計なことを言わない男だった。だが、必要なことは聞き落とさず、あとで使える形で残しておく。現場でも書類でも手が動く人間は、特務隊では貴重だった。今日も腰に剣を帯びながら、片手には小さな革張りの記録帳を持っている。
「白百合宮の裏手に、これだけ広い区域が残っていたとはな」
ルシアンが呟くと、隣を歩くセレネが庭の奥へ視線を向けた。
「見せるための庭ではなく、隔てるための庭のように見えます」
「隔てる?」
「はい。白百合宮から北側離宮群まで、道はきちんと続いています。けれど、門を挟んで空気が変わるように作られている。宮の一部ではあるけれど、日常の生活圏からは外されていたのだと思います」
静かな言い方だったが、ルシアンには妙に引っかかった。
白百合宮は今、新しい命を守るための宮として使われている。その北側に、かつて後宮だった離宮群があり、さらにその地下から女性と子供の骨が見つかった。偶然と言うには、あまりにも皮肉が過ぎる。
背後で、小さく筆を走らせる音がした。今のセレネの言葉も記録したのだろう。
北園庭園を抜けると、北側管理門が見えてきた。
管理門は、正門のように大きくはない。白百合宮と北側離宮群をつなぐ実務用の門で、両脇には低い詰所がある。現在は門の前に仮柵が置かれ、王太子宮の封蝋が押された札が下げられていた。立ち入り禁止。調査中。許可なき者の進入を禁ずる。新しい札の硬い文字が、古い石の門に妙に浮いて見えた。
門の前には見張りの兵が二人立っていた。ルシアンの姿を見ると、二人はすぐに姿勢を正したが、その表情には安堵が混じっている。王族特務隊の隊長が来たことへの緊張よりも、自分達だけでこの場所を見張らずに済むことへの安心の方が強いように見えた。
「昨夜も香の匂いがしたのか」
ルシアンが尋ねると、若い兵の方が一瞬だけ口をつぐんだ。
「……はい。夜半を過ぎた頃です。強くはありませんでしたが、確かに」
「どこから」
「門の奥です。離宮群の方から流れてくるように感じました。ただ、確認しようと進むと、匂いは薄くなっていきました」
「火の気は」
「ありません。燭台も、作業小屋も確認しました。使われた跡はありません」
兵は怯えているというより、自分の感覚を信じていいのか分からない顔をしていた。目に見えない匂いを報告するのは、兵にとっても気が進まないのだろう。だが、声に作り物めいた響きはない。
「昨夜の見張りは誰だ」
「自分と、西門警備隊のラウルです」
背後で、記録帳に筆が走る音がした。
「あとでラウルからも直接聞き取れ。時間、場所、風向き、誰に報告したかも確認しろ」
「承知しました」
また、短く筆の音が続いた。
「ここから先は俺達が確認する。お前達は門を守れ。誰も入れるな」
「はっ」
兵が鎖を外し、門を開ける。
鉄が軋む音が、庭の奥に低く響いた。
北側管理門を越えた途端、足元の石畳が変わった。白百合宮側の庭道は歩きやすく整えられていたが、こちらの石は古く、ところどころ傾いている。その上に、工事のための板が仮に敷かれ、荷車の跡が薄く残っていた。壁際には切られた蔦の根が残り、その上から新しい足場が組まれている。離宮群全体が修復の対象になっているため、ひとつの建物だけではなく、区域そのものが工事現場のようになっていた。
布をかけられた足場、積まれた石材、木材、縄、工具箱。使われなくなっていた宮を起こすために、多くの人の手が入っていたことは分かる。けれど今は作業が止まり、人夫達の声も聞こえない。道具だけが残された場所は、人の気配を失った舞台のように静まり返っていた。
「音が変わりましたね」
セレネが呟いた。
「音?」
「はい。白百合宮側では、遠くに侍女達の足音や庭師の作業音が残っていました。でもここは、風の音と、布が擦れる音ばかりです」
言われて、ルシアンは周囲の静けさに意識を向けた。
確かに、静かすぎる。
本来なら、ここには人夫達の足音や掛け声、木材を運ぶ音、足場を打つ音が響いていたはずだ。だが今は、足場にかけられた布が風を受けて揺れ、木組みがわずかに軋む音だけが聞こえる。使われるはずだった道具が置き去りにされているせいで、工事が止まった事実がかえって生々しかった。
「怖いことを言うな」
「事実を言っただけです」
「君は時々、それが一番怖い」
セレネは反論しなかった。ただ、ほんの少し首を傾けてから、また前を向いた。その横顔はいつも通り落ち着いている。こういう時、彼女が取り乱さないことは心強い。だが同時に、何を見ても動じないように見えるその冷静さが、かえって場所の不気味さを際立たせることもあった。
修復中の離宮群を進んでいくと、道の途中に布がずれた工具箱があった。
ルシアンは足を止める。
「触るな」
同行していた若い隊員へ短く命じてから、箱へ近づいた。中には鉄の楔や短い杭、折れた縄が入っている。どれも工事に使うものだ。だが、箱の縁に細い灰のようなものが付いていた。
ルシアンは指で触れる前に、セレネを呼んだ。
「セレネ」
彼女は横に来て、箱の縁を覗き込んだ。灰の色と、周囲に散った石粉を比べるように視線を低くする。
「香の灰でしょうか」
「分かるのか」
「断定はできません。ただ、工事の石粉ならもっと白いはずです。木屑とも違います。灰だとすれば、ここで何かを焚いたか、焚いたものを運んだ時に落としたのかもしれません」
ルシアンは顔をしかめた。
火の気はないと兵は言った。だが、灰らしきものはある。誰かがここに入ったのか。あるいは、封鎖される前に置かれたものなのか。
「クライヴ、場所を記録しろ。箱は動かすな。あとで灰を取らせる」
「はい」
背後で記録帳が開かれ、筆が走る音がした。
「昨夜、ここまで確認した者は?」
ルシアンが門の兵へ問い直すと、兵は首を横に振った。
「自分達は門より奥へは進んでいません。匂いは確かにしたのですが、近づくほど薄くなったため、気のせいかもしれないと……」
「それだけか」
兵は一瞬、迷うように視線を落とした。
「……それと、白百合宮の女官に止められました」
「女官?」
「はい。年配の女官です。北側の古い部屋については、自分達より白百合宮の者の方が詳しいから、勝手に奥へ入らない方がよいと」
「名前は」
「申し訳ありません。自分には分かりません」
兵は恐縮したように頭を下げた。
「ただ、白百合宮の女官達に確認すれば、すぐ分かると思います。北側の鍵や古い部屋の扱いは、その方に聞くようにと言われました」
兵が知らないのも無理はなかった。白百合宮の内側でだけ通じる役目なら、外から配置された見張りには分からないだろう。だが、北側の鍵や古い部屋の扱いを知っている女官がいる。しかも、その女官は夜に北側へ入るなと兵を止めた。
それはただの親切ではない。
「その女官は、他に何か言ったか」
「日が落ちてから、あちらへ入るものではない、と」
兵の声は少し低くなった。
「危険だから、という言い方ではありませんでした。昔からそう決まっている、と言われたような……自分には、そう聞こえました」
背後で、筆が紙を擦る音がした。
ルシアンは北側離宮群の奥へ視線を向けた。
白百合宮の女官が、北側の鍵や古い部屋の扱いを知っている。しかも、その女官は日が落ちてから入るものではないと兵を止めた。兵にとっては、ただ年配の女官に注意された程度の出来事だったのかもしれない。だが、ルシアンにはそうは思えなかった。
使われていないはずの離宮群に、今も扱い方を知る者がいる。夜に踏み込むなという言葉が、危険を知らせるためではなく、昔からの決まりを守らせるためのものだったとすれば、そこには王宮の記録には残らない何かがある。
「分かった。白百合宮側へ戻ったら確認する」
ルシアンはそう答え、道の奥へ視線を向けた。
調査対象の離宮は、北側離宮群の中でも少し奥まった場所にあった。規模は白百合宮よりずっと小さいが、かつてはそれなりに格式のある建物だったのだろう。外壁には百合に似た花の浮き彫りが残り、窓枠には細い装飾が施されている。ただし今は、壁のあちこちに足場が組まれ、窓の多くは木板で塞がれていた。前庭には石材と木材が積まれ、掘り返された地面に作業用の縄が張られている。
その離宮の側面にある扉の前で、作業は止まっていた。
扉は白く塗られていたはずだが、長い年月で色がくすみ、金具の周りには錆が浮いている。取っ手には新しい鎖が巻かれ、王太子宮の封蝋が押されていた。工事人夫が地下への入口を見つけたあと、改めて封鎖されたのだろう。
扉に近づくと、かすかに甘い匂いがした。
ルシアンは息を止めかけて、すぐに浅く吸い直す。
白檀に似ている、と兵は言っていた。たしかに甘さはある。だが、それだけではない。古い衣箱を開けた時のような乾いた匂いと、湿った石の冷たさが混じっている。美しい匂いのはずなのに、どこか息苦しかった。
「……するな」
「はい」
セレネも同じものを感じ取ったらしい。彼女は扉の下へ視線を落とした。
床と扉の隙間に、薄い灰が溜まっていた。
はっきりとした山ではない。風に押されて寄ったような細い線だ。けれど、周囲の石粉とは色が違う。扉の向こう側から、わずかに漏れてきたようにも見える。
「中で焚いたのか」
ルシアンは呟いた。
「もしそうなら、誰かがこの扉の向こうへ入ったことになります」
ルシアンは扉の鎖と封蝋を見た。どちらにも、破られた跡はない。
セレネは床の灰へ視線を落としたまま、静かに言った。
「では、香を焚いた者は、この扉を使っていないのかもしれません」
その言葉に、ルシアンは視線を上げた。
記録にない地下空間があるなら、入口が一つとは限らない。北側離宮群のように古い建物が集まる場所なら、管理用の通路や、今は塞がれた地下道が残っていてもおかしくはなかった。
「香は時間を置いて匂いを出すものなのか」
「種類によります。練香なら湿気や温度で匂いが戻ることもあります。ただ、夜ごとに兵が気づくほどなら、自然に残った匂いだけとは考えにくいです」
ルシアンは扉の下部を見た。古い木はわずかに反り、床との間に細い隙間ができている。中で匂いが立てば、外へ漏れることはあり得る。だが、その匂いを生んだ者がどこから入ったのかは、まだ分からない。
「開ける」
封蝋の状態を確認させてから、鎖を外させる。
封蝋が割れる音が、修復中の離宮の壁に小さく響いた。重い金具が床に置かれたあと、ルシアンは片手を剣の柄に添えたまま扉を押した。
長く動かされていなかった木が軋み、低い音を立てて内側へ開く。
冷たい空気が流れ出した。
同時に、香の匂いが強くなる。
中は、かつて控えの間か小さな居室として使われていた場所らしい。窓には厚い木戸が閉じられ、わずかな隙間から差す光だけが床を細く照らしている。壁際には古い棚が残り、中央には布をかけられた家具がいくつか置かれていた。埃は積もっているが、荒らされた様子はない。
ただ、部屋の奥にある床の一部が崩れていた。
そこから、地下へ続く暗い口が開いている。
工事人夫が見つけたという崩落箇所だろう。周囲には縄が張られ、落下防止のための板が仮に置かれている。覗き込むと、下には粗い石段のようなものが見えた。自然にできた穴ではない。人の手で造られた通路だ。
ルシアンはしばらく、その穴を見下ろした。
記録に存在しない地下空間の入口が、今、目の前にある。紙面で読むよりも、その暗さははるかに生々しかった。そこへ降りた者がいて、そこで暮らした者がいて、そして骨だけが残った。そう考えると、足元の床石まで別の意味を持ち始める。
「ここが入口か」
「はい」
セレネは部屋の中へ一歩入り、足元を確かめながら進んだ。埃を乱さないように歩く場所を選んでいる。彼女の視線が、部屋の隅で止まった。
「ルシアン様」
呼ばれて近づくと、古い棚の下に小さな香炉が置かれていた。
陶器製の、白い香炉だった。表面には百合の模様が描かれている。地下で見つかったという香炉とは別のものだろう。こちらは比較的新しい。少なくとも、何十年も放置されていたようには見えなかった。
蓋を開けると、中に灰が残っていた。
完全には冷えている。けれど、香の匂いはそこからしていた。
「……誰かが使っているな」
ルシアンは低く言った。
怪異ではない。
少なくとも、この香に関しては人の手がある。
だが、それで気味の悪さが消えるわけではなかった。むしろ、誰かが今もこの封鎖区域に入り、地下へ続く入口のそばで香を焚いていたという事実の方が不穏だった。
何のために、誰のために、そして、なぜ隠れてまで。
ルシアンは香炉から視線を上げ、地下へ続く崩落箇所を見た。
暗い穴の奥から、冷たい空気が上がってくる。そこにはまだ、調べなければならないものが残っている。だが、白百合宮に戻ったら、北側を知るという年配の女官にも話を聞かなければならない。
ルシアンは白い香炉を見下ろした。
誰かがここに来ていた。その事実だけは、もう疑いようがなかった。




