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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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埋もれた骨②

「だが、長くは止められない」


 ルシアンは眉を寄せた。


「危険が残っているなら、人夫を入れるべきではありません」


「分かっている」


 レオニスの返答は早かった。だが、その声には、ただ急いでいる者の軽さはなかった。北側区域で骨が見つかった以上、無理に工事を進める危険は誰よりも理解しているはずだ。それでも止められないと言うのなら、そこには安全だけでは測れない事情がある。


 ルシアンは、テーブルに広げられた工事計画書へ視線を落とした。


 崩落箇所の周辺には、赤い印がいくつも入れられている。地下への入口が見つかった場所、遺骨が確認された場所、壁や床の損傷が疑われる廊下。作業予定のいくつかには横線が引かれ、日付の欄も書き換えられていた。現場が混乱していることは、紙面を見るだけでも分かる。


 ただ、止まっているのは石や木の動きだけではない。


 そこに関わる人間の暮らしも止まる。


 ルシアンは、それを理解していた。北方や東部から仕事を求めて王都へ流れてきた者達にとって、数日の中断はただの予定変更では済まない。今日受け取るはずだった賃金で、今夜の食事を買う者もいる。宿代を払う者もいる。地方へ残した家族へ送る者もいる。王宮の北側で引かれた赤い線は、城壁の外にいる者達の生活にも繋がっている。


 だからこそ厄介だった。


 危険があるなら止めるべきだ。だが、止めたままにすれば別の場所で人が追い詰められる。王宮内の事件でありながら、これは王宮だけで完結しない。


「全面的に再開するつもりはない」


 レオニスは静かに言った。


「だが、北側区域すべてを封じ続けるわけにもいかない。危険な場所と、作業を戻せる場所を早く分けたい」


「その判断を俺にしろと?」


「あぁ」


 レオニスは、ルシアンをまっすぐ見た。


「表向きは警備と安全確認だ。だが実際には、この地下空間が何なのか、どこまで危険があるのかを早急に見極めてほしい」


 ルシアンはすぐには答えなかった。


 兄の言っていることは分かる。人夫を戻すなら、どの区画が安全で、どこから先が危険なのかを切り分ける必要がある。噂が広がる前に、兵の配置も作業の範囲も決め直さなければならない。


 だが、骨が二十を超え、子供の骨まで見つかっている。


 そんな場所を、ただ崩落の危険だけで判断するわけにはいかなかった。


「地下の構造が分からない以上、安易に安全とは言えません。記録にない空間なら、別の入口や空洞が残っている可能性もあります」


「分かっている。だからお前に頼んでいる」


 レオニスの声は、わずかに低くなった。


「兵だけでは足りない。現場を見て、必要なら封鎖範囲を広げろ。ただし、戻せる場所があるなら、そこも見極めてくれ」


 ルシアンは小さく息を吐いた。


 面倒な役回りだ。


 危険を見落とせば人が傷つく。必要以上に止めれば、生活のために働きに来た者達を追い詰める。どちらか一方を選べば済む話ではない。だから、正確に見なければならない。


 死者の眠る地下と、地上で仕事を待つ生者。


 その両方が、白百合宮の北側に重なっていた。


「分かりました。北側区域は俺が確認します。ただし、人夫を戻すのは調査済みの区画だけです。少しでも不審な場所があれば止めます」


「それでいい」


 レオニスは頷いた。


 その返答に迷いはなかった。だが、表情は緩まない。むしろ、これから口にすることの方が本題なのだと分かる沈黙が落ちた。


「それと、妙な話が出始めている」


 ルシアンは眉を寄せる。


「妙な話?」


「夜になると、北側区域で香の匂いがするらしい」


「香?」


「あぁ。封鎖した廊下の奥から、白檀に似た甘い匂いが漂ってくるそうだ。見張りの兵が確認しても、火の気はない。誰かが香炉を使った跡も見つかっていない」


 ルシアンは、先ほどの調査記録を思い出した。


 地下で見つかった生活道具の中に、香炉があった。


 それ自体は不思議ではない。後宮に近い場所なら、香が使われていてもおかしくない。だが、問題は今も匂いがするという点だった。長く閉ざされていた地下に古い香炉が残っていたとしても、火を入れなければ匂いは立たない。湿った石壁や古い木材に染みついた残り香だとしても、夜ごとに廊下まで漂うほど強くなるとは考えにくい。


「誰かが入っている可能性は?」


「鍵は壊されていない。見張りも置いている。少なくとも、正面から入った者はいない」


「なら、別の出入口があるかもしれません」


 ルシアンが言うと、レオニスは頷いた。


「私もそう見ている。記録にない地下空間だ。入口が一つとは限らない」


 セレネが静かに見取り図へ視線を落とした。


「香の匂いが、骨の発見後に出始めたのなら、偶然とは考えにくいです」


 ルシアンはセレネを見る。


 彼女は紙面の端にある未調査区画へ目を向けていた。声はいつも通り落ち着いている。けれど、その目はすでに、見えている情報の奥を探っているようだった。


「誰かが、北側区域へ人を近づけたくないのかもしれません。あるいは、逆に、そこに注意を向けさせたいのかもしれません」


「注意を向けさせたい?」


「はい。香の匂いは、声や物音と違って、誰かが確かめようとしても痕跡が残りにくい。ですが、気付いた者には強い印象を残します。怪異の噂として広がれば、人は勝手に恐れます」


 たしかにそうだった。


 誰もいない場所から香が漂う。火の気もない。香炉を使った跡もない。そう聞けば、兵も人夫も不安になる。北側区域が、ただの工事現場ではなく、何か得体の知れない場所として語られ始める。


 そして噂は、調査を遅らせる。


 人を遠ざけることもできる。


 逆に、誰かに特定の場所を意識させることもできる。


 ルシアンは見取り図を手元へ引き寄せた。紙の上に引かれた線は淡々としているのに、そこに書かれていないものばかりが目につく。封鎖された廊下の奥から漂うという香の匂い。地下に残されていた寝台や食器。時代の揃わない骨。そして、王宮の正式な記録に存在しない空間。


 まだ、どれも答えではない。


 だが、別々の出来事として扱うには、あまりにも同じ場所を指していた。


「香の匂いがしたのは、いつからです」


「骨が見つかった翌夜からだ」


「早いですね」


 ルシアンは低く言った。


 骨が見つかったことを知り、すぐに動いた者がいるのか。あるいは、発見されることを前から恐れていた者が、ついに動き始めたのか。


 どちらにせよ、北側区域の地下について何かを知っている人間が、今の王宮内にいる可能性がある。


 その時、リリアーナが静かに口を開いた。


「古くから白百合宮に仕えている者なら、北側区域のことを何か知っているかもしれません」


 レオニスが妻を見る。


 リリアーナは赤子を抱いたまま、少しだけ視線を伏せた。


「私がこちらへ移ってから、何人かの女官が北側の廊下を避けていることには気付いていました。怖がっているというより、近づいてはいけない場所だと、ずっと昔から教えられているような様子でした」


 ルシアンは目を細めた。


「誰です」


「名前は後で書かせます。ただ、強く問い詰めると口を閉ざすと思います。あの者達は、噂話として怖がっているのではなく、守るべき決まりのように避けていましたから」


 守るべき決まり。


 その言葉が、ルシアンの中に引っかかった。


 怖いから近づかないのではない。近づいてはいけないと教えられている。ならば、それは単なる怪談ではなく、白百合宮の中で受け継がれてきた何かだ。


「古参の女官から話を聞きます。表向きは警備確認にしておきます。骨の話を広げる必要はありません」


「頼む」


 レオニスが短く答える。


 ルシアンは見取り図を見下ろした。


 北側区域の線は、紙の上では簡単に辿れる。だが、実際の廊下には、長く積もった埃や閉ざされた扉があるはずだ。そこに白檀に似た匂いが漂うのなら、それは古い宮が息を吹き返したようにも感じられるだろう。


 もちろん、そんな感傷で片付けるつもりはない。


 匂いがするなら、原因がある。


 人が入ったなら、痕跡が残る。


 火を使ったなら、灰が残る。


 何もないように見えるなら、見落としている場所がある。


「明るいうちに現場を見ます」


 ルシアンは言った。


「夜の噂を調べるにしても、まず昼の状態を知らなければ判断できません。セレネ、君も来られるか」


「はい」


 セレネは静かに頷いた。


「地下の遺物と、白百合宮に残る古い記録を照らし合わせた方がいいと思います。香炉が本当に当時のものなら、使われていた香の種類から、持ち主や時代が分かるかもしれません」


「兄上、フェリクス兄上にも話を通していいですか」


「あぁ。地下構造と古記録を見るなら、フェリクスにも動いてもらう。ミレイユ嬢にも香の成分を確認できるか聞いておく」


 レオニスはそこまで言うと、一度リリアーナと赤子へ視線を向けた。


 その目に、王太子としての冷静さとは別の色が宿る。


「この宮には、リリアーナと子がいる」


 低く落とされた声だった。


「何が眠っているにせよ、ここへ近づけたくない」


 ルシアンは、兄のその言葉を聞きながら、窓の外へ視線を向けた。白い花は変わらず風に揺れている。庭園の先には、穏やかな白百合宮の北側がある。だが、その向こうには、記録にない地下空間が口を開けている。


 新しい命を守る宮の裏に、名前を失った骨が眠っている。


 その事実だけで、胸の奥に冷たいものが残った。


「分かっています」


 ルシアンは見取り図を手に取った。


「北側区域を確認します。香の匂いが本当にするなら、原因も探る。人間の仕業なら、必ずどこかに綻びがあるはずです」


 怪異ではない、と言い切るつもりはなかった。


 だが、最初に疑うべきは人間だ。水鏡の魔女事件で、それだけは嫌というほど思い知らされた。


 ルシアンは紙の端を指で押さえながら、もう一度、未調査区画へ視線を落とした。


 白百合宮の北側に何が眠っているのか。


 それを知るには、もう現場へ行くしかなかった。

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