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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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埋もれた骨①

 テーブルの上には、崩落した床の先で見つかった地下空間の見取り図と、現地調査の記録が広げられていた。

 紙面には、白百合宮北側区域、崩落箇所、地下へ続く段差、確認済みの空間、未調査区画といった文字が細かく書き込まれている。

 だが、どれほど丁寧に線を引かれていても、その場所は王宮の正式な記録には存在しない。

 少なくとも、ルシアンがこれまで目を通してきた王城図にも、警備用の地下構造図にも、その空間は一度も記されていなかった。


 その奥から、大量の骨が見つかった。


 その一文だけで、白百合宮の穏やかな空気は静かに温度を失っていくようだった。


 窓の外では、庭園を渡る風に白い花が揺れている。産後の静養にふさわしいよう整えられた庭は、柔らかな色ばかりで満たされていた。噴水の水面には午後の光が淡く散り、侍女達が遠くで赤子用の布を干しているのが見える。


 そんな場所で話すには、目の前の書類はあまりにも陰惨だった。


「どれくらい見つかったんです」


 ルシアンが問いかけると、レオニスはしばらく書類から視線を上げなかった。指先で紙の端を押さえたまま、確認するように短く息を吐く。


「現時点で二十を超えている。まだ奥は掘り返しきれていない。増える可能性がある」


 予想していたより、はるかに多い数だった。


 一体や二体であれば、事故や過去の事件として片付ける余地もある。だが、二十を超える骨が、王宮の地下に、記録にも残されず眠っていたとなれば話は違う。そこには、誰かが長い間隠してきた意思がある。


「全員、女性ですか」


「ほとんどはな。まだ確定ではないが、子供の骨と思われるものもある」


 その瞬間、室内の空気がわずかに変わった。


 リリアーナは何も言わなかった。ただ、腕の中で眠る赤子を無意識に抱き寄せる。その動きは小さかったが、ルシアンの目にははっきりと映った。


 レオニスもそれに気付いたのだろう。一瞬だけリリアーナへ視線を向け、その表情を確かめるように目元を和らげる。だが、すぐに王太子の顔へ戻った。


「年代も揃っていないらしい」


 レオニスは別の紙を引き寄せた。


「骨の状態から見る限り、同じ時期に亡くなった者ばかりではない。数十年単位で差がある可能性があるそうだ」


 セレネが静かに書類へ視線を落とす。彼女の指先は紙に触れなかった。けれど、そこに書かれた情報を一つずつ拾っているのは分かった。黒い睫毛がわずかに伏せられ、海色の瞳が見取り図の奥へ沈むように細められる。


「同じ場所へ、埋め続けられていたのでしょうか」


「恐らくな」


 レオニスは、さらに一枚の報告書を抜き取った。


「地下には生活の痕跡も残っていた。古い寝台、香炉、食器、装飾品。牢というより、誰かがそこで暮らしていた場所に近い」


 ルシアンは顔をしかめた。


 ただ閉じ込めるための空間ではない。寝台があり、食器があり、香炉まであるなら、そこには生活の時間があった。朝を迎え、食事をし、夜を越えた者がいたということになる。だが、それが地上ではなく地下であったことが、どうしようもなく歪んでいた。


「妙ですね」


 セレネが言った。


 声は静かだったが、その一言で全員の視線が彼女へ向かう。


「何がだ?」


 ルシアンが尋ねると、セレネは見取り図から目を離さないまま答えた。


「本当に隠すだけなら、生活の痕跡や装飾品を残す必要はありません。むしろ邪魔になるはずです。骨だけを隠したいなら、運び出すことも、焼くことも、別の場所へ移すこともできたはずです」


 セレネはそこで一度言葉を切った。視線は淡々と紙面を追っていたが、声にはわずかに重さがあった。


「それなのに寝台や香炉、食器まで残っている。これは遺体を隠した場所というより、生きている間から表に出せなかった人々を置いていた場所に見えます」


「生きている間から?」


 ルシアンの声は自然と低くなった。


「はい」


 セレネは頷いた。


「たとえば、身分の高い女性を公に処罰できない場合です。王族や有力貴族に近い女性は、ただ罪人として牢に入れるわけにはいきません。表向きの体面があります。家の名誉、血筋、教会との関係、周囲の貴族への影響。そういうものが絡むと、死刑や追放よりも、病養や静養という名目で姿を消させる方が都合がいいことがあります」


 部屋の空気が静まっていく。


 ルシアンはセレネの横顔を見た。彼女は感情を高ぶらせているわけではない。けれど、選ぶ言葉は妙に具体的だった。古い伝承を語る時とも、推理を整理する時とも違う。まるで、誰かがそうやって消される仕組みを、紙の上ではなく実例として知っているような口ぶりだった。


「後宮では、子を産める女性そのものが政治になります。寵愛を受けた側室が子を身ごもれば、その子には継承権が発生する可能性がある。たとえ低位の側室でも、後ろ盾の貴族が強ければ王宮内の勢力図は変わります。反対に、母親の出自や信仰に問題があれば、その子の存在は王家にとって危険にもなる」


 リリアーナの腕の中で、赤子が小さく身じろぎした。柔らかな布が擦れる音がして、レオニスの視線がわずかにそちらへ動く。


 セレネは続けた。


「だから、女達はただ愛されるかどうかだけで生きていたわけではありません。誰の子を身ごもったか。どの家が背後にいるか。どの宗派に近いか。どの王子を支持する者達に担がれるか。その一つ一つで、命の価値が変わってしまう」


 ルシアンは無言で聞いていた。


 昔の後宮が、今の白百合宮と違っていたことは知っている。だが、書物の中にある古い制度として知っていることと、目の前の地下空間に寝台と骨があることは別だった。制度という言葉で整えられたものが、実際には人の呼吸と恐怖と孤独でできていたのだと、嫌でも思い知らされる。


「もし王位継承に関わる子を身ごもった女性が、王家にとって不都合な存在になったら。もし禁じられた信仰を持つ女性が、王の子を産んでしまったら。もし有力貴族に利用される可能性のある母子がいたら。表向きは病を得たことにして、白百合宮の北側へ移すことができるでしょう」


「そこで暮らさせるのか」


 ルシアンが問うと、セレネは静かに目を伏せた。


「暮らす、という言葉が正しいかは分かりません。ただ、死なせるためだけの場所なら、寝台も香炉も装飾品も不要です。ある程度の待遇を与え、外からは静養と見せかけ、けれど二度と宮の表側へは戻さない。そういう場所だった可能性があります」


 レオニスの表情が硬くなった。


 リリアーナもまた、腕の中の赤子へ視線を落としたまま、何も言わない。柔らかな人だが、今の話を聞き流すほど鈍くはない。彼女の指が、赤子の背をゆっくり撫でているのが見えた。


「さらに、子供の骨があるなら話は重くなります」


 セレネの声は、そこで少しだけ低くなった。


「母親だけを隔離したのではなく、子供ごと消された可能性があります。産まれたことにしてはいけない子。継承順位に入れてはいけない子。あるいは、すでに記録から消された王族の血を引く子。そういう子供達がいたとしたら、普通の墓には葬れません」


 普通の墓には葬れない。


 その言葉が、ルシアンの中に冷たく残った。


 墓に名前を刻めば、その者が生きていた証になる。王宮の記録に名を残せば、誰かがいつかその存在を辿る。だが、地下に埋めてしまえば、名も、血筋も、母親の声も、最初からなかったものにできる。


 王家の歴史とは、そうやって整えられてきたのかもしれない。


「……ずいぶん具体的だな」


 レオニスが静かに問いかける。


 その声に、責める色はなかった。だが、王太子として聞き逃せないものを聞いたという鋭さがあった。


 セレネはそこで、初めてゆっくりと顔を上げた。


「後宮の記録には、表の歴史に残らない女性達がいます。寵愛を失った側室。子を産んだ直後に病死したことにされた母親。母子共に遠方の修道院へ移されたと記された者。けれど、その後の寄進記録にも、墓所記録にも名前が出てこない。そういう記録の欠落は、偶然とは限りません」


「……それは、どこの国の話だ?」


 レオニスの問いに、セレネは一瞬だけ黙った。


 長い沈黙ではない。けれど、ルシアンには妙に引っかかった。彼女の横顔はいつも通り冷静で、表情が崩れたわけでもない。ただ、答えを選ぶまでの間が、わずかに慎重だった。


「昔、書物で読んだことがあります」


 静かな返答だった。


 それ以上は踏み込ませない言い方でもあった。ルシアンはセレネを見たが、彼女はもう書類へ視線を戻している。その横顔から、内心を読み取ることはできない。だが、その言葉には、どこか遠い昔話を語るだけではない重さがあった。


「つまり、お前は今回の件に、過去の後宮や王家の問題が関係している可能性を見ているのか」


 レオニスが問う。


「まだ断定はできません。ただ、王宮の地下に、記録のない空間があり、そこに複数の遺骨が隠されていた。これが普通の埋葬ではないことだけは確かです」


 ルシアンも同じ意見だった。


 王宮の地下。記録にない空間。生活の痕跡。大量の骨。どれも一つずつなら過去の事情で片付けられるかもしれない。だが、それらが同じ場所に重なった時、そこには誰かが意図して作った闇がある。


「工事は止めてあるんですか」


「あぁ。北側区域は封鎖した。出入りは兵に管理させている」


 レオニスはそこで言葉を切った。


 指先が、工事計画の書類へ移る。そこには地下空間の見取り図とは別に、人員配置、資材の搬入経路、日ごとの作業予定が細かく記されていた。今は赤い線で一部が消され、北側区域の作業中断を示す印がいくつも入っている。


「だが、長くは止められない」


 ルシアンは顔を上げた。


「危険があるなら、止めるべきでしょう」


「分かっている」


 レオニスの声は静かだった。だが、その静けさの底に、簡単には動かせない重さがあった。


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