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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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北側区域

 レオニスが、テーブルに置いていた書類を手に取った。


 白百合宮の空気は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。窓の外では白い花々が風に揺れ、室内には薄く甘い香りが漂っている。リリアーナの腕の中では、赤子が小さな寝息を立てていた。けれど、レオニスが書類を持ち上げた瞬間、その柔らかな空気の中に、別の緊張が落ちた。兄の顔から、私的な場で見せる穏やかさが少しだけ引く。そこに現れたのは、王太子として物事を判断する時の顔だった。


「白百合宮北側の区域は知っているか」


 ルシアンは少し考えた。白百合宮そのものは、王城の中でも穏やかな空気を持つ場所だ。王太子妃の住まう宮であり、庭も整えられ、女官たちの動きも静かで無駄がない。だが、その北側となると話が変わる。王城の中でも古く、普段はあまり人が近づかない区域がある。


「古い離宮が並んでる辺りですよね」


「そうだ」


 レオニスは頷き、手元の書類を広げた。セレネも静かに身を乗り出し、見取り図へ視線を落としている。ルシアンも紙面を覗き込んだ。広げられた紙には、白百合宮を中心に、その周辺へ建てられた離宮群が細かく描かれている。建物同士を繋ぐ細い回廊、今は使われていない庭、古い井戸、閉鎖された小門。普段歩く範囲だけでは分からないほど、北側の区域は複雑に入り組んでいた。


「思ったより広いですね」


 セレネが静かに言った。


「元々、数世代前の後宮区域だからな」


 レオニスが淡々と答える。


 現在のアルヴェリア王家は、一夫一妻を重視している。少なくともルシアンが生まれてから、側室制度が実際に機能しているという話を聞いたことはない。父王も王妃以外の妻を持たず、王宮内で側室の派閥が力を持つような空気もなかった。だが、過去は違う。


 王へ嫁いだ女たちは、それぞれ自分の子を王位へ近づけようとした。貴族たちもまた、側室や王子を後ろ盾として派閥を作り、王宮内では常に思惑が渦巻いていたらしい。今の王城からは想像しにくいが、古い記録を読めば、花や音楽に囲まれた宮の奥で、静かな争いが続いていたことは分かる。


「最盛期には十数人以上いたと記録に残っている」


 レオニスは見取り図の北側を指先でなぞった。


「立場によって与えられる離宮も違った。本館へ近い者ほど寵愛が強いと見なされ、逆に後ろ盾が弱い者や、王の関心を失った者は北側へ追いやられた」


「露骨ですね」


 ルシアンは思わず顔をしかめた。


「昔の王家なんてそんなものだ」


 レオニスは特に感情を込めずに返した。その言い方が淡々としている分、余計に重く聞こえる。権力の近くにある場所では、部屋の位置一つですら意味を持つ。どの宮を与えられたか、誰の近くにいるか、王がどれだけ通うか。それだけで、周囲の扱いも変わったのだろう。


 その横で、リリアーナが少し困ったように笑った。


「今その話をすると、ルシアンが余計嫌そうな顔をしますよ」


「もうしてる」


「自覚はあるんですね」


 セレネが静かに返した。


 ルシアンは小さく舌打ちした。否定したいところだが、実際に顔に出ていた自覚はある。王族として過去の制度を知らないわけにはいかない。だが、知っていることと、好ましいと思うことは別だった。


「けど、今の王家はかなり変わりましたよね」


 セレネが、紅茶の水面へ視線を落としながら言った。白い指先がカップの縁に添えられている。その声はいつも通り落ち着いていたが、軽い話題として流しているわけではないように聞こえた。


「そうですね。今は側室制度そのものが、ほとんど形だけです」


 リリアーナも穏やかに頷く。


「王宮の女官たちも、昔の話を聞くと驚くくらいですから」


「まぁ、兄上が側室を取る姿とか想像できませんしね」


 ルシアンがそう言うと、レオニスが呆れたように視線を向けてきた。


「お前はどうなんだ」


「嫌ですよ。面倒くさい」


 即答だった。


 リリアーナが小さく笑う。


「ルシアンは昔からそういうところ、変わりませんね」


「学院時代から女性に囲まれるのを嫌がっていましたよね」


 セレネが静かに追撃する。


「お前まで乗るな」


「事実です」


 淡々と返され、ルシアンは小さく息を吐いた。余計なことを言うべきではなかった。だが実際、今の王家はかなり特殊だ。父王も側室を持たず、王妃との関係も安定している。レオニスとリリアーナもそうだ。昔の王家とは、明らかに空気が違っていた。


 だからこそ、見取り図に描かれた古い後宮区域は、今の王城の中で少しだけ浮いて見える。過去の制度と感情が、そのまま建物の形になって残っているようだった。


「で、その区域がどうしたんです」


 ルシアンは話を戻した。


 レオニスは別の書類を抜き取り、見取り図の上へ重ねた。そこには北側区域の一部が拡大され、いくつかの建物に印が付けられている。


「北側区域を整理する話が出ていてな」


「整理?」


「老朽化が激しい。使われていない離宮も多いから、いずれ建て替える予定だった」


 レオニスは淡々と続ける。


「特に北西区域は、長年放置されている建物が多い。外壁も傷み、屋根が抜けかけている場所もある。庭は荒れ、古い排水路も詰まり始めていた」


「そんなに急ぐ理由があるんですか」


 ルシアンが問い返すと、レオニスは少しだけ視線を上げた。


「雇用だ」


「雇用?」


「ここ数年、北方と東部で天候不順が続いている」


 ルシアンもその話は知っていた。報告書は何度も目を通している。収穫量が安定せず、地方から王都へ流れてくる者が少しずつ増えていた。特に冬場は深刻だ。仕事のない者が増えれば、治安にも影響する。食料価格が乱れれば、商人も農地も巻き込まれる。地方だけの問題では終わらない。


「地方だけで抱え込ませれば、いずれ崩れる」


 レオニスは静かな声で言った。


「王都側で仕事を作る必要があった」


 セレネが小さく頷いた。


「建築事業なら、人を動かせますね」


「資材、運搬、職人、警備、整備……金も回る」


 レオニスは書類を軽く叩いた。


「王都で流れた金を、地方商会や農地へ戻す。完全ではないが、多少は支えになる」


「地方の作物価格も落ち始めていますしね」


 セレネが静かに続けた。


「今年は東部の小麦もかなり厳しいはずです」


「そこまで知ってるのか」


 ルシアンが思わず見ると、セレネは当然のように返した。


「ヴァルキュリア領でも商会は動いていますから」


 ルシアンは少しだけ苦笑した。こういう時、セレネは本当に侯爵令嬢なのだと思う。ただ本を読むのが早く、古記録に詳しいだけではない。領地運営や商会の流れまで把握している。学院時代から知識量がおかしいとは思っていたが、今はその知識が実際の政務にまで繋がっているのが分かる。


「だから北側区域の整備を始めた」


 レオニスは続けた。


「王都で雇った者たちへ賃金を流し、その金が地方へ戻る流れを作りたかった」


「なるほど」


「本来なら、王宮の使われていない区域を整理する良い機会でもあった」


 レオニスはそこで一度言葉を切った。


 そのわずかな間で、室内の空気が変わった。白百合宮の穏やかな香りも、窓の外で揺れる花の気配も、少しだけ遠くなる。ルシアンは兄の手元にある書類を見た。レオニスの指が、北西区域の一点で止まっている。


「だが、工事中に問題が起きた」


 室内が静かになった。


 リリアーナも、腕の中の赤子を静かに抱き直した。赤子は眠ったままだったが、その小さな寝息だけが、妙にはっきり聞こえる。セレネも見取り図へ視線を落としたまま、黙って続きを待っていた。


 レオニスは書類をテーブルへ置いた。


「床が崩落したらしい」


「崩落?」


「地下空間が見つかった」


 ルシアンの眉が自然と寄る。先日の地下水路の記憶が、まだ完全には抜けていない。崩れた石段、黒い水、沈んだ祭壇。地下という言葉だけで、あの冷えた空気が胸の奥に戻ってくるようだった。


 セレネの視線がわずかに細くなる。


「記録には?」


「残っていない」


 ルシアンは見取り図の北西区域を見下ろした。王宮内の建物で、記録に残っていない地下空間。古い後宮区域。使われなくなった離宮。偶然とは思いにくい言葉が、いくつも並んでいく。


「隠し部屋ってことですか」


「恐らくな」


 レオニスは短く答えた。


 そして、一度だけ間を置いた。その沈黙が、次に続く言葉の重さを先に伝えてきた。


「その地下から骨が出た」


 静かな声だった。


 だが、それだけでは終わらなかった。


「……大量に、だ」


 ルシアンの表情が変わったのが、自分でも分かった。喉の奥がわずかに詰まり、視線が見取り図の一点から離れなくなる。セレネも、ほんのわずかに目を細めた。


 白百合宮の穏やかな空気が、ゆっくり冷えていく。


 窓の外では、白い花々が何も知らないように静かに揺れていた。


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