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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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白百合宮

 水鏡の魔女事件から、三ヶ月が過ぎていた。


 地下水路は完全に封鎖され、夜間の外出を控えるよう出されていた通達も、すでに解除されている。


 王都には、以前と変わらない人の流れが戻り始めていた。噴水広場には露店が並び、昼下がりには子供たちの笑い声まで響くようになっている。


 もっとも、噂そのものが消えたわけではない。


 黒髪の女を見た。


 夜の水辺で、歌声を聞いた。


 地下水路には、まだ何かがいる。


 そんな話は、今でも時折耳に入る。


 ただ、人々の怯えは以前ほどではなかった。今では半ば怪談話のように語られ、酒場の隅や市場の立ち話の中で、尾ひれをつけて広がっている。


 ルシアンは王城の回廊を歩きながら、小さく息を吐いた。


「随分、嫌そうなお顔ですね」


 隣を歩いていたセレネが、静かに言う。


「嫌だろ」


 即答すると、セレネが僅かにこちらへ視線を向けた。


「リリアーナ殿下に呼ばれただけですが」


「兄上夫妻のところへ行く時は、大抵、面倒事も一緒についてくるんだよ」


「経験談ですか」


「経験談だ」


 ルシアンは眉を寄せた。


 今日はリリアーナから呼び出されている。


 理由は聞かされていない。


 ただ、少し相談したいことがある、とだけ伝えられていた。


 それだけならまだいい。


 だが、セレネまで一緒に呼ばれている時点で、普通の茶会で終わる気がしなかった。


 隣を歩くセレネへ視線を向ける。


 今日は王族の私的な場へ赴くためか、普段より少し格式を上げた装いだった。


 深い緑色のドレスは、夜の森を思わせる落ち着いた色合いで、光の加減によっては黒にも見える。重ねられた裾には金糸の刺繍が細く流れ、歩くたび控えめな輝きが揺れていた。


 肩から袖にかけては、透け感のある黒いレースが重ねられている。肌を隠しすぎず、それでいて品を損なわない仕立てだった。


 華やかというより、静かな気品がある。


 長い黒髪は後ろで緩やかに編み込まれ、小さな銀細工の髪飾りだけが控えめに光っていた。


 派手ではない。


 だが、不思議と目を引く。


 黒髪というだけで視線を集める王都において、その姿は妙に凛として見えた。


 見ていたことに気付いたのか、セレネがこちらを見る。


「何ですか」


「……いや」


「今、何か思いましたね」


「お前は無駄に勘がいいな」


「無駄とは何ですか」


 即座に返され、ルシアンは小さく息を吐いた。


 学院時代からこうだった。


 妙なところだけ、やけに鋭い。


 回廊を曲がると、空気が少し変わった。


 月桂宮周辺は、他の区域よりも静かだ。淡い香が焚かれ、行き交う女官たちの足音までも控えめに感じる。


 リリアーナは出産後の静養も兼ね、現在は月桂宮ではなく白百合宮で過ごしているらしい。


 白百合宮は、王族女性が出産前後の静養に使う離宮の一つだった。王城本館から少し離れた場所にあり、窓の外には名の通り、白い花々が植えられている。穏やかな空気を好んで、幼い王族たちも幼少期にはよくここで過ごすという。


 近衛女官が一礼し、扉を開いた。


「ルシアン殿下、セレネ様。お待ちしておりました」


 室内へ入ると、柔らかな陽射しと花の香りが迎えた。


 窓際には、リリアーナが座っている。


 淡い色のドレスに身を包み、その腕の中には小さな赤子が抱かれていた。


 陽射しの中で微笑む姿は、以前よりも空気が穏やかに見える。母になったからだろうか。言葉にするほどではないが、纏うものが少し変わった気がした。


「来てくださってありがとうございます」


 その声へ応じようとした時、室内の奥から紙を捲る音が聞こえた。


「遅かったな」


 低く落ち着いた声だった。


 視線を向けると、奥の長椅子へ腰掛けたレオニスが、書類から顔を上げていた。


 肩を越えて流れる長い金髪は、緩く後ろへ束ねられている。窓から差し込む陽射しを受け、淡く光って見えた。


 青と金が混ざる瞳はアルヴェリア王家特有のものだが、ルシアンよりも色が静かで深い。


 王太子として政務に関わる時間が長いせいか、年齢以上に落ち着いて見える。 


 ただ座っているだけなのに、室内の空気が自然と整うような威圧感があった。


 手元には数枚の書類が置かれている。だが、今は完全に仕事中という空気ではなかった。


「仕事を押し付けたのは兄上でしょうが」


「半分だけだ」


 レオニスは涼しい顔で返す。


 ルシアンが呆れたように息を吐くと、リリアーナが小さく笑った。


「まぁまぁ。今日はちゃんとお茶会ですよ」


「その言い方が一番信用できないんですが」


「あら、酷い」


 穏やかなやり取りの中、セレネは静かに一礼した。


「この度はご出産、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 リリアーナは嬉しそうに微笑み、腕の中の赤子へ視線を落とした。


「よろしければ、抱いてみますか?」


 不意にそう言われ、セレネが僅かに目を瞬かせる。


「……私が、ですか」


「えぇ」


 リリアーナは、ごく自然な様子で赤子を差し出した。


 セレネは一瞬だけ迷ったあと、慎重にその小さな身体を受け取る。


 その様子を見て、ルシアンは少し目を細めた。


 普段のセレネは冷静で、どこか近寄り難い空気がある。


 だが、今は違った。


 壊れ物へ触れるように、静かに赤子を抱く姿は、思っていたよりずっと柔らかい。


 赤子が小さく手を動かす。


 その指先が、セレネの黒髪へ触れた。


 一瞬だけ、部屋の空気が静かになる。


 黒髪。


 誰も、その言葉を口にはしない。


 けれど、水鏡の魔女事件以降、その色へ向けられる視線が変わったことを、ここにいる全員が知っていた。


 それでもリリアーナは、何も気にした様子もなく微笑んだ。


「この子、セレネ様のことが気に入ったみたいですね」


 セレネは少し困ったように視線を伏せた。


 その表情が珍しくて、ルシアンは思わず口元を緩める。


 すると、セレネが気付いたようにこちらを見た。


「何ですか」


「別に」


「今、笑いましたね」


「気のせいだろ」


「ルシアン殿下は分かりやすいので」


 即答され、ルシアンは小さく舌打ちする。


 レオニスが、そのやり取りを見ながら小さく笑った。


「仲が良いな」


「どこがですか」


「どこがだ」


 二人同時に返したことで、今度はリリアーナまで吹き出した。


 穏やかな笑い声が、室内へ広がる。


 その時間だけは、水鏡の魔女も、黒髪への視線も、王都に残る不穏な噂も、遠いもののように思えた。


 だが、その空気が落ち着いたところで、レオニスの表情が少しだけ変わる。


 王太子としての顔だった。


「……さて、本題に入るか」


 ルシアンは小さく眉を寄せた。


 やはり、ただの茶会で終わるはずがなかった。

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