白百合宮
水鏡の魔女事件から、三ヶ月が過ぎていた。
地下水路は完全に封鎖され、夜間の外出を控えるよう出されていた通達も、すでに解除されている。
王都には、以前と変わらない人の流れが戻り始めていた。噴水広場には露店が並び、昼下がりには子供たちの笑い声まで響くようになっている。
もっとも、噂そのものが消えたわけではない。
黒髪の女を見た。
夜の水辺で、歌声を聞いた。
地下水路には、まだ何かがいる。
そんな話は、今でも時折耳に入る。
ただ、人々の怯えは以前ほどではなかった。今では半ば怪談話のように語られ、酒場の隅や市場の立ち話の中で、尾ひれをつけて広がっている。
ルシアンは王城の回廊を歩きながら、小さく息を吐いた。
「随分、嫌そうなお顔ですね」
隣を歩いていたセレネが、静かに言う。
「嫌だろ」
即答すると、セレネが僅かにこちらへ視線を向けた。
「リリアーナ殿下に呼ばれただけですが」
「兄上夫妻のところへ行く時は、大抵、面倒事も一緒についてくるんだよ」
「経験談ですか」
「経験談だ」
ルシアンは眉を寄せた。
今日はリリアーナから呼び出されている。
理由は聞かされていない。
ただ、少し相談したいことがある、とだけ伝えられていた。
それだけならまだいい。
だが、セレネまで一緒に呼ばれている時点で、普通の茶会で終わる気がしなかった。
隣を歩くセレネへ視線を向ける。
今日は王族の私的な場へ赴くためか、普段より少し格式を上げた装いだった。
深い緑色のドレスは、夜の森を思わせる落ち着いた色合いで、光の加減によっては黒にも見える。重ねられた裾には金糸の刺繍が細く流れ、歩くたび控えめな輝きが揺れていた。
肩から袖にかけては、透け感のある黒いレースが重ねられている。肌を隠しすぎず、それでいて品を損なわない仕立てだった。
華やかというより、静かな気品がある。
長い黒髪は後ろで緩やかに編み込まれ、小さな銀細工の髪飾りだけが控えめに光っていた。
派手ではない。
だが、不思議と目を引く。
黒髪というだけで視線を集める王都において、その姿は妙に凛として見えた。
見ていたことに気付いたのか、セレネがこちらを見る。
「何ですか」
「……いや」
「今、何か思いましたね」
「お前は無駄に勘がいいな」
「無駄とは何ですか」
即座に返され、ルシアンは小さく息を吐いた。
学院時代からこうだった。
妙なところだけ、やけに鋭い。
回廊を曲がると、空気が少し変わった。
月桂宮周辺は、他の区域よりも静かだ。淡い香が焚かれ、行き交う女官たちの足音までも控えめに感じる。
リリアーナは出産後の静養も兼ね、現在は月桂宮ではなく白百合宮で過ごしているらしい。
白百合宮は、王族女性が出産前後の静養に使う離宮の一つだった。王城本館から少し離れた場所にあり、窓の外には名の通り、白い花々が植えられている。穏やかな空気を好んで、幼い王族たちも幼少期にはよくここで過ごすという。
近衛女官が一礼し、扉を開いた。
「ルシアン殿下、セレネ様。お待ちしておりました」
室内へ入ると、柔らかな陽射しと花の香りが迎えた。
窓際には、リリアーナが座っている。
淡い色のドレスに身を包み、その腕の中には小さな赤子が抱かれていた。
陽射しの中で微笑む姿は、以前よりも空気が穏やかに見える。母になったからだろうか。言葉にするほどではないが、纏うものが少し変わった気がした。
「来てくださってありがとうございます」
その声へ応じようとした時、室内の奥から紙を捲る音が聞こえた。
「遅かったな」
低く落ち着いた声だった。
視線を向けると、奥の長椅子へ腰掛けたレオニスが、書類から顔を上げていた。
肩を越えて流れる長い金髪は、緩く後ろへ束ねられている。窓から差し込む陽射しを受け、淡く光って見えた。
青と金が混ざる瞳はアルヴェリア王家特有のものだが、ルシアンよりも色が静かで深い。
王太子として政務に関わる時間が長いせいか、年齢以上に落ち着いて見える。
ただ座っているだけなのに、室内の空気が自然と整うような威圧感があった。
手元には数枚の書類が置かれている。だが、今は完全に仕事中という空気ではなかった。
「仕事を押し付けたのは兄上でしょうが」
「半分だけだ」
レオニスは涼しい顔で返す。
ルシアンが呆れたように息を吐くと、リリアーナが小さく笑った。
「まぁまぁ。今日はちゃんとお茶会ですよ」
「その言い方が一番信用できないんですが」
「あら、酷い」
穏やかなやり取りの中、セレネは静かに一礼した。
「この度はご出産、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
リリアーナは嬉しそうに微笑み、腕の中の赤子へ視線を落とした。
「よろしければ、抱いてみますか?」
不意にそう言われ、セレネが僅かに目を瞬かせる。
「……私が、ですか」
「えぇ」
リリアーナは、ごく自然な様子で赤子を差し出した。
セレネは一瞬だけ迷ったあと、慎重にその小さな身体を受け取る。
その様子を見て、ルシアンは少し目を細めた。
普段のセレネは冷静で、どこか近寄り難い空気がある。
だが、今は違った。
壊れ物へ触れるように、静かに赤子を抱く姿は、思っていたよりずっと柔らかい。
赤子が小さく手を動かす。
その指先が、セレネの黒髪へ触れた。
一瞬だけ、部屋の空気が静かになる。
黒髪。
誰も、その言葉を口にはしない。
けれど、水鏡の魔女事件以降、その色へ向けられる視線が変わったことを、ここにいる全員が知っていた。
それでもリリアーナは、何も気にした様子もなく微笑んだ。
「この子、セレネ様のことが気に入ったみたいですね」
セレネは少し困ったように視線を伏せた。
その表情が珍しくて、ルシアンは思わず口元を緩める。
すると、セレネが気付いたようにこちらを見た。
「何ですか」
「別に」
「今、笑いましたね」
「気のせいだろ」
「ルシアン殿下は分かりやすいので」
即答され、ルシアンは小さく舌打ちする。
レオニスが、そのやり取りを見ながら小さく笑った。
「仲が良いな」
「どこがですか」
「どこがだ」
二人同時に返したことで、今度はリリアーナまで吹き出した。
穏やかな笑い声が、室内へ広がる。
その時間だけは、水鏡の魔女も、黒髪への視線も、王都に残る不穏な噂も、遠いもののように思えた。
だが、その空気が落ち着いたところで、レオニスの表情が少しだけ変わる。
王太子としての顔だった。
「……さて、本題に入るか」
ルシアンは小さく眉を寄せた。
やはり、ただの茶会で終わるはずがなかった。




