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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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幕間 雨上がり

第一章の物語終了から数日後です。

 事件が終わってから、王都には少しずつ穏やかな空気が戻り始めていた。


 地下水路は封鎖され、水鏡の魔女事件についても、王家から正式な発表が出された。夜間外出を控えるよう出されていた通達も解除され、街には以前と変わらない人の流れが戻りつつある。昼の市場には商人の声が戻り、馬車の車輪が石畳を叩く音も、以前より自然に聞こえるようになった。だが、それで全てが元通りになったわけではない。人々は水辺を通るとき、ほんの少し足早になる。噴水の縁に腰掛ける者は減り、日が落ちた後の川沿いには、まだ兵の姿が目立っていた。


 もっとも、噂そのものが完全に消えたわけではなかった。


 夜の水辺には近づかない方がいい。地下水路にはまだ何かいる。水面を覗き込むと、底から女の声が聞こえる。そうした話は、今でも時折耳に入る。ただ、以前のような張り詰めた恐怖ではない。誰もが本気で怯え、黒髪の女を見ただけで息を呑むような空気は薄れ始めていた。今は少しずつ、怪談話に近いものへ変わっている。恐怖が消えたのではなく、人々がそれを日常の中へ押し込めようとしているのだろう。


 ルシアンは、図書塔へ向かう回廊を歩きながら、窓の外へ視線を向けた。


 雨は上がっている。薄い雲の切れ間から差した陽射しが、王城の庭にある噴水の水面を淡く光らせていた。その光景を見ても、以前のようにただ美しいとは思えない。水面が揺れるたび、あの地下礼拝堂の黒い水が頭の奥をよぎる。理屈では、もう事件は終わっている。だが身体に染みついた緊張は、そう簡単に抜けるものではなかった。


 フェリクスに言われたのは、つい先ほどのことだった。


 セレネ、また図書塔に籠もってると思うよ。


 兄はいつもの軽い口調でそう言ったが、その目は少しだけ真面目だった。事件が終わった直後だというのに、セレネが休むとは思えない。そういう意味なのだと、ルシアンにもすぐ分かった。だからこうして来た。別に心配しているからではない、と自分に言い訳するには、もう遅かった。


 図書塔の奥へ進むと、古い紙と乾いた革の匂いが濃くなった。高い棚には分厚い記録書が並び、窓から入る光の中で、埃がゆっくり漂っている。人の気配は少ない。司書が遠くで書架を整理する音だけが、小さく響いていた。


 奥の長机に、セレネはいた。


 彼女は机の上へ何冊もの資料を広げ、静かに文字を追っていた。背筋は伸びているが、肩にはわずかな疲れが見える。黒髪は耳の後ろで軽くまとめられ、窓から入る光を受けて深い色を帯びていた。机上には、古記録の写しや、王家側の資料、ローディア家から押収された記録の一部が重ねられている。紙片には細かな印が付けられ、いくつかの頁には彼女の手で短い注釈が添えられていた。


 ルシアンは机の横に立ち、影が彼女の手元へ落ちるのを見た。


「また難しい顔してるな」


 セレネが顔を上げた。


 その表情は、驚いたというほど大きくは変わらなかった。だが、海のように深い瞳が一度だけ瞬き、ルシアンを静かに映す。


「どうしたんですか」


「兄上が、お前また図書塔に籠もってるだろって」


 ルシアンは呆れたように言いながら、向かい側の椅子を引いた。許可を待たずに腰掛けると、セレネが少しだけ視線を細める。


「随分自然に座りますね」


「学院時代からずっとこうだっただろ」


「確かにそうですが」


 淡々と返され、ルシアンは肩を竦めた。こういうやり取りは、妙に懐かしい。王立学院にいた頃も、セレネは図書塔の奥で一人、誰よりも早く資料を読み進めていた。こちらが隣へ座っても、驚きもしない。邪魔だとも言わない。ただ当然のように資料の続きを読み、必要ならばこちらへ本を一冊差し出した。


 ルシアンは机へ広げられた資料を見下ろした。古い紙には細かな文字が詰まり、年代ごとの記録が並んでいる。見出しの一部に、アルヴェリア歴四〇二年と記されていた。


「……相変わらず読んでる量がおかしいな」


「まだ気になることがありますので」


「事件終わったばっかなんだから少し休め」


「ルシアン殿下も休んでいないでしょう」


「俺は仕事だ」


「私も半分は仕事です」


 即答だった。


 ルシアンは思わず小さく笑った。事件の直後だというのに、彼女の返しは少しも鈍っていない。その反応が懐かしくて、どこか安心してしまったのが自分でも分かった。


 セレネがこちらを見る。


「何ですか」


「いや、昔と変わらねぇなと思って」


「何がです」


「お前、学院時代からその顔で徹夜してただろ」


 ルシアンの脳裏に、学院時代の図書塔が浮かんだ。試験前の夜、燭台の灯りの下で、セレネは今と同じように静かな顔で本を読んでいた。周囲の生徒たちが焦って頁を捲る中、彼女だけは淡々としていた。眠そうに見えたことも、苛立って見えたこともほとんどない。ただ、与えられた知識の奥へ、当たり前のように踏み込んでいく。


「ルシアン殿下も、よく勝手に隣へ座っていましたね」


「お前が一人で先に進めるからだろ」


 ルシアンは不満を隠さず返した。


「しかも聞いたら普通に教えるし」


「隠す理由がありませんので」


「おかげで周囲から変人扱いされてたんだぞ」


「ルシアン殿下は元々少し変わっています」


「喧嘩売ってるか?」


 セレネは小さく肩を竦めた。


 その仕草に、ルシアンは呆れたように笑うしかなかった。軽口を交わせる程度には、状況が戻ってきている。そう思いたかった。けれど、机の上に広げられた資料を見れば、完全に日常へ戻ったわけではないことも分かる。


 ルシアンは机上の古記録を一枚手に取った。紙は古く、端が少し波打っている。丁寧に扱わなければ、すぐに破れてしまいそうだった。


「で、今回は何を調べてる」


「402年の記録です」


「あぁ、王家側から消えてるやつか」


「はい。やはり不自然です」


 セレネは資料へ視線を落とした。感情を大きく出す声ではない。だが、その目には明らかに引っかかりが残っている。


「ローディア家側には存在しているのに、王家禁書庫側にだけ残っていない。単純な紛失とは思えません」


 ルシアンは腕を組んだ。


「誰かが意図的に消した」


「可能性は高いと思います」


 静かな声だった。


「水鏡の魔女伝承は、長い年月をかけて形を変えています。歌声も、赤いリボンも、後から追加された可能性が高い」


「人が怪異を作ったってことか」


「少なくとも、人が恐怖を広げていた痕跡はあります」


 ルシアンは資料へ視線を落とした。事件の調書でも同じ結論は出ている。黒髪の女も、歌声も、現場に残された品も、すべて人の手で仕組まれたものだった。だが、セレネが今追っているのは、それよりさらに古い部分だ。事件に使われた噂ではなく、噂がどこから始まり、どの時点で歪められたのか。その根を探ろうとしている。


 窓から風が吹き込み、机上の紙がかすかに揺れた。ルシアンは手元の紙を押さえる。窓の外では、噴水の水面が陽射しを受けて静かに光っていた。あれだけ王都を怯えさせた水のきらめきが、今は何事もなかったように穏やかに見える。その落差が、どこか気味悪くもあった。


 セレネが、窓の外へ視線を向ける。


「ですが、人は昔から理解できないものへ名前を付けます」


 ルシアンは彼女を見た。


「怪異とか呪いとか、そういう形にした方が納得できるのでしょう」


 数秒、沈黙が落ちた。


 ルシアンは小さく息を吐く。セレネのこういうところは、昔から変わらない。恐れるでも、否定するでもなく、まず観察する。人が何を怖がり、なぜそれを怪異と呼んだのか、その仕組みごと見ようとする。


「……やっぱお前、そういう話してる時が一番楽しそうだな」


「そうでしょうか」


「学院時代も似たような顔してた」


 セレネが少し目を瞬かせた。


「覚えているんですか」


「そりゃ覚えてるだろ。お前、古代史の講義で教師と議論してたし」


「あれは向こうの解釈がおかしかったので」


「教師相手に普通そこまで言うか?」


「事実でしたので」


 あまりに迷いのない即答に、ルシアンは堪えきれず笑った。


 図書塔の静かな空気へ、その笑い声が小さく響く。遠くで司書がこちらを見た気配がしたため、ルシアンはすぐに声を抑えた。セレネは少しだけ視線を逸らしている。照れたのか、呆れたのかまでは分からない。ただ、その横顔は事件の最中に見た硬さより、いくらか柔らかく見えた。


 ルシアンは、そのことに胸の奥で少しだけ安堵した。


 こうしている時間は、嫌いではない。


 そう思ったのは、ルシアンの方だった。


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― 新着の感想 ―
読ませていただきました。 読みやすい文章で表現される、美しくも不気味な雰囲気が、読んでいてとても面白いなって思いました。 この後どうなるんだろうと思って、ここまでずっと手が止まりませんでした。 ルシア…
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