残響
水鏡の魔女事件が終息してから、数日が過ぎていた。
地下水路は完全に封鎖され、王都には夜間外出を控えるよう通達が出された。兵の巡回も増え、表通りでは少しずつ店の灯りが戻り始めている。だが、街を覆っていた不安が消えたわけではない。人々は昼間の市場では普段通りに振る舞っていても、日が落ちれば水辺へ近づく足を止める。噴水の近くを通る者は、無意識に水面を見ないよう顔を背ける。水鏡の魔女という名前は、事件が解決したという知らせだけで簡単に消えるほど、軽い噂ではなくなっていた。
窓の外では、雨が降っている。灰色の空から落ちる雨粒が、王城の窓硝子を細く濡らし、硝子の表面にいくつもの筋を作っていた。雨音は静かだったが、途切れることなく続いている。その音が、地下礼拝堂で聞いた水音を思い出させる。ルシアンは椅子に腰を下ろしたまま、しばらく窓の方を見ていた。冷たい湿気が部屋の中にまで入り込んでいるような気がして、指先にわずかな強張りが残った。
執務机の上には、事件に関する資料が積み上げられていた。地下水路の古地図、禁書目録、地下礼拝堂の調査報告、押収品目録、そして数冊に分けられた事情聴取書類。どれも乾いた紙のはずなのに、そこに書かれているものは、まだ泥水と血の匂いを含んでいるように感じられた。
ルシアンは、その中からエドガー・ベルンの名が記された書類束を引き寄せた。
供述書、補足調書、押収品目録、事情聴取を担当した騎士の覚書。数十枚に及ぶ紙が、紐でまとめられている。紐をほどくと、紙の端がわずかに擦れ、静かな部屋に乾いた音が落ちた。ルシアンは表紙をめくる。
整った筆跡が、静かに並んでいた。無駄がなく、必要な情報だけを整理する書き方。見慣れた筆跡ではないはずなのに、その几帳面さには覚えがあった。王族特務隊隊長補佐として働いていた頃のエドガーと、少しも変わらない。感情を入れず、余計な言葉を削り、ただ事実だけを並べる。そういう書類の作り方だった。
そこには、エドガーがローディア公爵の隠し子であることが記されていた。
母親は、ローディア家の侍女。幼い頃に公爵家が管理する孤児院へ移され、その後は使用人教育を受けながら育てられたらしい。正式な子として扱われたことは、一度もなかった。名を与えられ、教育を受け、屋敷の内側へ入ることは許された。それでも、家族として迎えられたわけではない。
それでも公爵は、時折エドガーを呼び出していた。
礼儀作法、記録整理、禁書管理、薬物の扱い、地下水路の構造。与えられた知識は、すべてローディア家のために働くためのものだった。父として何かを与えたわけではない。必要な仕事をさせるために、必要な知識を与えただけだ。書類の上では淡々と記されているその事実が、かえって残酷だった。
失敗すれば、食事を抜かれた。命令を聞き間違えれば、夜通し記録の写しをさせられた。感情を見せれば叱責され、泣けば弱さだと切り捨てられた。褒められることは、ほとんどなかった。
ただ一度だけ、公爵が、よく覚えた、と言ったことがあるらしい。
調書には、それだけが淡々と記されていた。
たったそれだけの言葉を、エドガーは何年も忘れられなかったのだという。
ルシアンは、紙を持つ指に力が入るのを感じた。紙の端がわずかに歪む。すぐに力を抜いたが、胸の奥に沈んだ怒りは消えなかった。
これは教育ではない。
支配だ。
地下礼拝堂へ初めて連れて行かれたのは、十代半ばの頃だったという。その頃にはすでに、ローディア公爵はノクシア信仰へ深く傾倒していた。失われた神を再び降ろす。そのために古記録を集め、地下水路を調べ、儀式に必要なものを揃えていた。エドガーは、その準備を手伝わされていた。
いや、手伝っていた、という方が近いのかもしれない。
ルシアンは、その一文を読んだところで目を止めた。命じられたから従った。そう書けば簡単だ。だが、エドガーはただ命令に縛られていただけではなかったのだろう。公爵に呼ばれ、役割を与えられ、必要だと言われる。そのたびに、いつか父に認めてもらえるのではないかと、そう思っていたのかもしれない。
ルシアンは小さく息を吐き、数枚先へ目を通した。
そこには、エドガーが王族特務隊へ入った理由が記されていた。
数ヶ月前、ローディア公爵から命じられたらしい。王家側の調査状況を探れ。地下水路や禁書に関する動きを把握しろ。そのために、ルシアンの側へ近づく必要があった。王族特務隊隊長補佐という立場は、公爵にとってあまりにも都合が良かった。
通常なら疑われる薬品や道具も、特務隊の調査名目なら入手しやすい。エドガーはその立場を使い、公爵に命じられるまま、眠り薬や身体の自由を奪う香、古い医療器具を揃えていた。
被害者たちは、怪異に襲われたわけではなかった。
香に混ぜられた薬で動けなくされ、その後、地下礼拝堂に残されていた古い器具と仕掛けを使って血を抜かれていた。だから遺体には大きな外傷がなかった。残っていたのは、肘の内側にある小さな痕だけ。笑っていた顔も、神に魅入られたからではない。薬の作用と、死後に作られた表情だった。
ルシアンは書類を持つ手に、再び力が入るのを感じた。
気味の悪い死体も、水辺に立つ黒い女も、水の底から聞こえたような歌声も、すべて人間が作ったものだった。水鏡の魔女という怪異は、どこかから現れたのではない。恐怖を知っている人間が、恐怖を利用して形にしたものだった。
別紙には、王都で目撃された黒い女についてまとめられていた。
黒い女は、一人ではなかった。エドガーは公爵の命を受け、王都の貧民街から数人の女を手配していた。金を渡し、髪を黒く染め、黒い外套を着せ、水辺や噴水の近くを歩かせた。それだけで十分だった。
夜の噴水。黒い髪。赤いリボン。引きずるような足音。
誰かが一度、水鏡の魔女だと口にすれば、あとは噂が勝手に形を持つ。恐怖は、人の目を歪める。ただ歩くだけの女の影を、人々は怪異として見た。見たものだけを語ったのではない。怖かったものを付け足し、聞いた噂を重ね、次の誰かへ渡していった。
ルシアンは押収品目録へ視線を移す。そこには、現場から見つかった黒く染められた髪、赤いリボン、黒い外套の一部、そして香の残り香が染みついた小瓶についての記録がまとめられていた。どれも、事件の最中は怪異の証拠に見えたものばかりだ。だが今は違う。それらはすべて、水鏡の魔女を現実に見せるための小道具だった。
歌声の正体も、補足調書に書かれていた。
地下水路と礼拝堂の反響を使えば、声は水の中から聞こえるように歪む。発した場所とは違うところから響き、近くにも遠くにも感じる。女官たちが水の中から歌声が聞こえたと怯えたのは、そのためだった。王城の噴水も、月桂宮の床下も、旧水路で繋がっていた。声も、水音も、地下から響かせることができたのだ。
ルシアンは、窓の外の雨を一度見た。
水の音。
それだけで、まだ胸の奥がざわつく。理屈は分かっている。調書も読んだ。仕掛けも、薬も、証拠も、すべて揃っている。それでも一度あの地下に立った身には、水音の奥に何かが潜んでいるような感覚だけが、簡単には消えなかった。
さらに補足調書を捲ると、見覚えのある名前が出てきた。
エレノア・ローディア。
ルシアンの脳裏に、白金の髪の令嬢が浮かぶ。淡い翠の瞳。細い杖。セレネを眩しいものでも見るように見つめていた、あの表情。彼女が右足を痛めたこと自体は事実だった。だが、公爵とエドガーはそれすら利用した。
右足を引きずる公爵令嬢。杖を突く足音。夜会で落とされたハンカチ。公爵家の紋章。
それらはすべて、エレノアへ人々の意識を向けるための材料だった。地下礼拝堂で見つかったハンカチも、偶然落ちたものではない。エドガーが公爵に命じられ、あの場所へ置いたものだった。
恐怖が一人の女へ集まれば、その女は器に近づく。
公爵は、そう信じていたらしい。
水鏡の魔女は、ただの噂ではなかった。噂を集め、恐怖を集め、人々の意識を一人の女へ向けることで、ノクシアを降ろす器を作る。それが、ローディア公爵の考えた神降ろしだった。
最初、公爵が狙っていたのはセレネだった。
黒髪で、第三王子の婚約者で、社交界では人形のようだと囁かれる侯爵令嬢。彼女ほど、水鏡の魔女の姿に重ねやすい存在はいなかった。だからこそ、黒い女の噂を広げた。だからこそ、黒髪を現場へ残した。だからこそ、セレネへ疑いが向くよう仕向けた。
だが途中から、公爵の考えは変わっていった。
黒髪であることよりも、高貴な血を持つこと。そして何より、恐怖を集められること。その条件を満たすなら、器は別の者でもよかった。最終的に、公爵がノクシアを降ろす器として選ぼうとしたのは、実の娘であるエレノアだった。
ルシアンは目を閉じた。
実の娘を、神を降ろすための器として見ていた。
その事実だけで、胸の奥が重くなる。怪異を作り上げたのは人間だった。だがその人間の方が、よほど怪異じみている。血の繋がった娘すら、信仰のための器として見られる。その歪みを、ルシアンはすぐに言葉へできなかった。
さらに頁を進めると、二人の名が続いていた。
レイモンド・グラディス。
アルバート・レイン。
どちらも、事件の被害者として処理された名前だ。だが調書の中にある二人は、ただ巻き込まれた犠牲者ではなかった。
レイモンドは資金面で公爵に協力していた。禁書の買い付け、薬品の入手、地下水路の調査。その裏に流れていた金の一部を、彼が動かしていたらしい。アルバートは知識面で関わっていた。水へ捧げる儀式。ノクシア信仰。黒き髪。消された古記録。最初は学術調査だと信じていたのだろう。だが調査が進むにつれ、それが研究ではなく、実際の神降ろしの準備だと気づいた。
レイモンドは逃げようとし、アルバートは資料を隠そうとした。
だから殺された。
実行したのは、エドガーだった。
公爵の命令だった、と調書には書かれている。だが、その一文で罪が薄くなるわけではない。エドガーは黒い女を手配し、証拠を置き、薬を揃え、血を抜く仕掛けを整え、目撃情報を誘導した。すべては、公爵のために。父に認められたかったから。
そこまで読んだところで、ルシアンは書類束を机へ置いた。
不思議と、怒りは薄かった。裏切られた、という感覚とも少し違う。怒るべきことは山ほどある。許されることではない。だが、地下礼拝堂で見たエドガーの顔が、まだ頭に残っていた。公爵へ逆らえず、それでも最後には止めようとしていた男の顔だった。
背後で扉が開いた。
ルシアンが振り返ると、セレネとフェリクスが部屋へ入ってきた。フェリクスは机上の書類を見ると、少しだけ眉を上げる。
「読んでた?」
ルシアンは短く頷いた。
「兄上、事情聴取したんだろ」
「まぁね。かなり素直に話してたよ。隠す気力も残ってなかった感じ」
フェリクスは机の端へ腰掛けた。セレネは窓際へ向かい、雨に濡れる硝子の向こうを静かに見ている。ルシアンは書類束へ視線を戻した。
最後の頁には、短い文章だけが残されていた。
父に認められたかった。
それだけだった。
言い訳も、弁明もない。ただ、その一文だけが静かに書かれていた。感情を削り落としたような書類の中で、その一文だけが妙に生々しく見えた。
フェリクスが小さく息を吐く。
「多分、分かってたんだろうね」
「何をだ」
「自分が駒でしかないってこと」
ルシアンは何も返さなかった。
ローディア公爵は、最後までエドガーを息子として扱わなかった。必要な知識だけを与え、使える場所へ置き、役割を与える。そこに親らしい感情はほとんど見えなかった。それでもエドガーは、公爵へ従い続けた。認められたかったからだ。たとえ相手が、一度も自分を子として見ていなかったとしても。
雨音だけが静かに響いている。
ルシアンは書類束を閉じ、小さく息を吐いた。
「……結局、今回の件は全部人間が作ったってことか」
窓際に立っていたセレネが、静かに視線を向けた。
「今回の件は、そうだったのだと思います」
落ち着いた声だった。
「噂を流し、恐怖を広げ、怪異へ形を与えていた。水鏡の魔女は、そうして作られていた存在でした」
ルシアンは、地下礼拝堂を思い出した。崩れ落ちる祭壇。濁流。最後に水底へ沈んでいったローディア公爵。すべてに仕掛けがあった。すべてに人の手が入っていた。そう説明されれば、確かに事件は終わる。
「ですが」
セレネが、静かに続けた。
「怪異そのものを、全て否定はできません」
フェリクスがわずかに眉を上げる。ルシアンも、窓際のセレネを見た。
セレネは雨の向こうを見つめたまま言う。
「昔から、人は理解できないものへ名前を与えてきました。そうして噂になり、伝承になり、時には本当に人を呑み込むこともある」
声は静かだったが、軽い慰めには聞こえなかった。
「人が怪異を作ることもあります。でも逆に、人がどれだけ否定しても消えないものもあるのだと思います」
フェリクスが苦笑する。
「まぁ、今回の件だけで怪異は全部嘘ですって言い切るのも乱暴か」
「兄上までそんなこと言うのか」
ルシアンが呆れたように返すと、フェリクスは肩を竦めた。
「いやぁ、僕は基本現実主義だけどね。ただ、昔から怪談とか伝承って、完全には消えないでしょ。全部が嘘なら、そもそもこんなに長く残らない」
窓を打つ雨音が、静かに続いている。
ルシアンは小さく息を吐いた。事件は終わった。少なくとも表向きには。王都を騒がせた水鏡の魔女は、人間が作り上げたものだった。だが地下礼拝堂で感じた、あの妙な空気だけが、まだ胸の奥に薄く残り続けていた。理屈で片づけられるものと、理屈で片づけてもなお残るもの。その境目が、雨音の向こうで静かに滲んでいるように思えた。




