表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/162

終焉のあと

 地下水路から地上へ出た瞬間、冷えた空気が肺の奥まで流れ込んだ。

 湿った地下の空気とは違う。夜明け前の外気は鋭く、濡れた喉を内側から刺すようだった。ルシアンは一度だけ浅く息を吐き、背後を振り返る。地下から吹き上がってくる水の匂いと、古い石の崩れた匂いが、まだ身体にまとわりついていた。


 濡れた靴が石畳を踏むたび、水が重たく跳ねた。外套も上着も水を吸い、肩へずしりとのしかかっている。歩くだけで裾から水が落ち、石畳の上に細い跡を残した。背後では、地下水路の入口から次々に特務隊員たちが上がってくる。誰も無傷ではない。泥水に濡れた者、肩を押さえる者、別の隊員に支えられながら足を引きずる者。それでも全員が立ち止まらず、広場へ人を逃がすために動き続けていた。


「担架をこっちへ!」


「医師はまだか!」


「道を開けろ!」


 声がいくつも飛び交い、夜明け前の薄暗い広場に慌ただしさが広がる。王都の外れにある石造りの広場は、まだ朝の光を受けきっていなかった。空は青黒く沈み、建物の輪郭だけがぼんやり浮かんでいる。そこへ地下から運び出された者たちの足音と、濡れた衣服が擦れる音と、石畳へ水滴が落ちる音が重なった。


 エレノアが、静かに運び出されてきた。


 白金の髪は泥水と血で汚れ、かつての滑らかな光沢は失われていた。頬からは血の気が引き、閉じられた瞼も唇も、夜明け前の薄明かりの中でひどく白く見える。濡れた衣服の裾からは水滴が絶えず落ち、担架代わりに使われた外套の上へ小さな染みを作っていた。ルシアンは足を止めた。すぐに近づきたかったが、医療に慣れた隊員たちの動きを邪魔するわけにはいかない。拳を握ったまま、その場で見守るしかなかった。


 隊員の一人が膝をつき、エレノアの首元へ指を当てた。周囲の声が、わずかに低くなる。水音も、息遣いも、今だけは遠く感じた。数秒が、やけに長かった。


 やがて隊員が小さく息を吐く。


「脈はあります」


 周囲の空気が、ほんのわずかに緩んだ。誰かが安堵の息を漏らし、別の隊員がすぐに毛布を用意する。ルシアンも、ようやく肩から力を抜いた。地下で張り詰め続けていた感覚が、今になって全身へ重くのしかかってくる。濡れた外套は肌へ張りつき、冷えた布越しに疲労が骨まで染み込んでいくようだった。手の中にまだ剣の柄の感触が残っている。強く握りすぎたせいで、指の関節が鈍く痛んだ。


 背後では、崩れた地下水路の入口から濁った水が流れ続けていた。石組みは大きく崩れ、もともとの通路の形をほとんど失っている。奥は土砂と石材で塞がり、黒い水だけが隙間から押し出されるように滲み出ていた。先ほどまで自分たちがいた地下礼拝堂も、今はもう水底へ沈んでいるのだろう。祭壇も、石段も、あの異様な紋様も、すべて濁流の下に消えたはずだった。


 フェリクスが崩落箇所を見上げながら口を開いた。


「水路側の支柱が完全にやられてるね。地下礼拝堂も無事じゃ済んでないなぁ」


 口調だけを聞けば、いつも通りの軽さが残っている。だが視線は真剣だった。崩れた石壁、水の流れ、地面の沈み方、周囲の建物との距離。フェリクスはそれらを一つずつ目で追いながら、地下構造を頭の中で組み立てているようだった。


 ルシアンは濡れた前髪をかき上げた。額に張りついていた髪から、冷たい水が頬へ伝う。


「兄上、まだ崩れる可能性は」


「ある。入口付近も長居しない方がいい」


 フェリクスの返答は早かった。


「地下水路そのものが水圧で押されてる。下手すると、このあたりの地盤ごと持っていかれるかも」


 ルシアンは舌打ちを飲み込み、近くの隊員へ視線を向けた。


「負傷者を入口から離せ。医師が到着するまで、広場の奥へ移動させろ。建物の壁際には寄るな。崩れる可能性がある」


「はっ!」


 隊員たちがすぐに動き出す。その横で、拘束されたエドガーが地面へ座らされていた。両手には縄が巻かれ、濡れた前髪が顔へ落ちている。右袖は血と泥水で色を変え、肩から腕にかけて動きが鈍い。見張りの隊員が左右に立っていたが、誰も露骨に責める言葉を投げなかった。


 王族特務隊隊長補佐。


 ここ数ヶ月、エドガーはその立場でルシアンの側にいた。資料整理から現場の補佐まで、細かな仕事を正確にこなし、余計なことを言わず、必要な場面では一歩先を読んで動いた。ルシアン自身も、その能力は信頼していた。だからこそ、縄をかけられて石畳に座る今の姿が、妙に現実から浮いて見えた。


 ルシアンはゆっくり近づいた。


 エドガーは顔を上げない。顎先から落ちた水滴が、石畳に小さく弾ける。肩はわずかに上下していた。寒さのせいか、痛みのせいか、あるいはそれ以外の何かか、ルシアンにはまだ判断できなかった。


「……殿下」


 掠れた声だった。


 ルシアンは、すぐには返さなかった。聞きたいことは山ほどある。いつからローディア公爵に関わっていたのか。どこまで知っていたのか。なぜ黙っていたのか。なぜ止まれなかったのか。そして、最後に公爵を止めたあの行動は何だったのか。問いは胸の中に次々と浮かぶのに、今はそのどれも言葉にならなかった。


 代わりに、フェリクスが静かに口を開いた。


「ローディア公爵は、まず助からないだろうね」


 フェリクスは、崩れた地下水路へ視線を向けたまま続ける。


「地下ごと沈んでる。捜索はかなり厳しいと思う」


 エドガーの肩が、わずかに揺れた。


 それだけだった。声を上げることも、顔を歪めることも、何かを言い返すこともしない。ただ、濡れた髪に隠れた横顔の奥で、何かを飲み込んだように見えた。


 フェリクスは小さく息を吐いた。


「地下礼拝堂、禁書、薬物、それに噂操作。ここまで揃えば、水鏡の魔女事件としては十分整理できそうかな」


 王都を騒がせていた怪異は、結局、人間の手で作られていた。


 夜の水辺で聞こえる歌声。地下水路から響く不気味な音。黒髪にまつわる不吉な印象。血を失った死体。水面を覗いた者が連れていかれるという古い伝承。それらは一つひとつであれば、ただの噂や偶然として流されたかもしれない。けれど誰かが意図して結びつけ、足りない部分に恐怖を塗り重ねれば、人々の中で怪異は形を持ち始める。王都の人間は、起きたことだけを見ていたのではない。見えないものまで想像し、互いに語り合い、恐怖を育てていた。


 理屈は分かる。


 事件として説明もつく。


 それでも、地下礼拝堂で感じた空気だけは、どうしても頭から離れなかった。崩れ落ちる祭壇の前で、ローディア公爵だけが何かへ取り憑かれたように水底を見続けていた姿。儀式が失敗してもなお、自分の信じたものを手放せず、最後にはセレネの黒髪にまで意味を見出した目。あの執着は、人間のものだった。だが、人間だからこそ恐ろしかった。


 セレネが静かに口を開いた。


「噂は、完全には消えないと思います」


 ルシアンは隣を見る。


 夜明け前の薄明かりの中で、セレネの黒髪が静かに揺れていた。濡れた髪はいつもより重たく見え、肩のあたりに水滴を落としている。顔色はよくない。地下での緊張と冷えが、彼女にも残っているはずだった。それでも声は落ち着いていた。


「今回の件は広がりすぎました。人は、一度恐れたものを簡単には忘れません」


 フェリクスが小さく肩を竦める。


「水鏡の魔女なんて最初から存在しないって説明したところで、納得しない人は出るだろうねぇ」


 実際、隊員たちの表情にも、まだ緊張は残っていた。地下礼拝堂は崩落し、ローディア公爵も消えた。エレノアは救い出され、関係者も拘束された。事件としては終わったはずだ。それでも誰も、完全に割り切った顔をしていない。水面の底に何かが残っているような、そんな居心地の悪さが広場の空気に混じっていた。


 ルシアンは冷えた空気を肺へ吸い込み、ゆっくり吐き出した。


「……厄介な事件だったな」


 言葉にした瞬間、胸の奥に重さが残った。ただ難しい事件だった、というだけではない。王都の恐怖を利用し、古い信仰を歪め、人を贄と呼び、救われたい者の弱さまで巻き込んだ。怪異の顔をしていながら、その奥にあったのは人間の執着と選択だった。


 そのとき、遠くで朝を告げる鐘が鳴り始めた。


 一つ、二つと、澄んだ音が夜明け前の王都へ広がっていく。まだ太陽は完全には昇っていない。けれど空の端はわずかに白み、建物の輪郭が少しずつはっきりしてきていた。冷たい風が広場を吹き抜け、濡れた外套の内側まで入り込む。水路入口から流れ出る濁った水面が、その風に小さく揺れた。


 ルシアンは、無意識にそちらを見た。


 一瞬だけ、水の奥で何かが揺れた気がした。沈んだ布の端か、流れてきた木片か、それともただの波紋か。近づいて確かめるには、水は濁りすぎていた。


 次の瞬間には、濁った波紋だけが静かに広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ