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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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神は降りない

 祭壇が、鈍い音を立てて傾いた。


 石組みの奥から、砕けるような軋みが響く。濁流はすでに祭壇の土台へ入り込み、石と石の隙間をこじ開けるように流れ込んでいた。崩れた石柱の破片が水面へ叩きつけられるたび、黒い水が高く跳ね、地下の壁に冷たい飛沫を散らす。天井からは砂と小石が降り続け、足元から伝わる振動は、先ほどよりも明らかに大きくなっている。地下空間そのものが、内側から低く唸っているようだった。


 フェリクスが周囲を見回しながら、崩落音に負けないよう声を張った。


「ルシアン! あと数分で全部落ちる!」


「分かってる!」


 ルシアンは剣を構えたまま、ローディア公爵から目を離さなかった。


 公爵は、なお石段の中程に立ち尽くしている。膝のあたりまで押し寄せた濁流が黒いローブを乱暴に揺らし、裾を水の中へ引きずり込もうとしていた。足元はもう安定していないはずだ。石段は水に隠れ、どこが欠け、どこが残っているのかも見えづらい。それでも公爵は、濡れた髪を額に張りつかせたまま、異様な熱を帯びた目でセレネを見据えていた。


「黒き髪は器となる」


 掠れた声だった。崩れかけた地下で、なお儀式の言葉に縋るその声に、ルシアンの胸の奥で怒りが沈んでいく。


「夜を受け入れ、水底へ沈み――」


「黙れ」


 ルシアンは、公爵の言葉を遮った。


 声は低く出た。怒鳴る必要はなかった。これ以上、あの男に言葉を続けさせたくなかった。


「これ以上、セレネへ近づくな」


 公爵が笑った。


 だが、その笑みにはすでに余裕も理性も残っていなかった。頬が引き攣り、目だけが爛々と濡れた光を帯びている。自分の信じたものが崩れていくことを認められず、最後に見つけた都合のいい理由へしがみついている。ルシアンには、そう見えた。


「王家の人間には分からぬ」


 公爵は一歩、また一歩と石段を降りてくる。濁流に足を取られ、体がわずかに揺れた。それでも止まらない。


「光の側にいる者達には」


 その瞬間、横から叩きつけるように濁流がぶつかり、石段全体が大きく揺れた。公爵の身体が傾く。倒れるかと思ったが、細い腕を広げるようにしてどうにか踏みとどまった。老いた身体を支えているのは筋力ではない。異様な執念だけが、彼をその場に立たせているようだった。


 ルシアンは剣を握り直した。濡れた柄が手の中でわずかに滑る。すぐに踏み込めるよう、足を半歩ずらした。その前へ、エドガーが水をかき分けるようにして立ちはだかった。


 右袖から落ちた血が、黒い水へ細く広がっていく。水に薄まり、すぐに濁流へ紛れて消えた。エドガーの顔色は悪い。水に濡れた前髪の奥で、唇を強く噛み締めているのが見えた。


 公爵が眉を寄せる。


「退け」


 エドガーは動かなかった。


 公爵を守るために立っているのではない。少なくとも、ルシアンにはそう見えた。エドガーは公爵の進む先を塞ぎ、セレネへ向かう道を遮っていた。


「……もう、やめてください」


 その声は、崩落音の中でもはっきり聞こえた。


 初めてだった。


 ルシアンの知る限り、エドガーがローディア公爵へ、これほど明確に逆らったことはなかった。いつも公爵の影のように控え、命じられたことを淡々とこなしていた男が、今は濁流の中で、傷を負った身体を引きずりながら公爵の前に立っている。


 地下へ重たい沈黙が落ちた。


 水は流れ続けている。石は落ち続けている。それなのに、ほんの一瞬だけ、周囲の音が遠のいたように感じた。


 公爵の目が、ゆっくり細まる。


「お前が口を挟むな」


「これ以上、犠牲を増やして何になるんです」


 エドガーの声は震えていた。けれど、逃げなかった。視線を伏せることも、後ろへ下がることもしない。


「神なんて、最初から――」


「黙れ!」


 怒声と同時に、公爵がエドガーの胸倉を掴んだ。


 水飛沫が跳ねた。エドガーの身体がわずかに引き寄せられ、足元の水が大きく乱れる。公爵の指は痩せていたが、その力には常軌を逸した必死さがあった。ローブの袖が濡れて腕に張りつき、血と水が混じって石段へ滴る。


「お前は従えばいい!」


 その顔には、もはや名門公爵としての威厳など残っていなかった。整えられていたはずの髪は乱れ、口元は歪み、目は信仰というより執着に濁っている。長い年月、自分の中だけで膨らませてきたものが、崩壊の寸前で噴き出しているようだった。


 エドガーは苦しそうに顔を歪めながらも、公爵の腕を掴んだ。


「……もう終わりです」


「終わっていない!」


 地下全体が激しく揺れた。


 直後、祭壇の一角が崩落した。轟音とともに石床が砕け、祭壇の上に積もっていた水が一気に流れ落ちる。白い布に包まれたエレノアの身体が、崩れた床の傾きに合わせてずれた。


「エレノア様!」


 特務隊員が即座に飛び込んだ。崩れた石材を踏み越え、水に足を取られながら祭壇へ駆け上がる。濁流は腰近くまで達していた。流れが強く、少しでも足を滑らせれば、そのまま下へ引きずり込まれる。もう一人の隊員が背後から支え、二人がかりで倒れかけたエレノアを抱き起こした。


 ルシアンは横目でその様子を確認する。エレノアの顔は白く、血の気がほとんど失われているように見えた。胸の動きは小さい。だが、隊員の一人がわずかに頷いた。


「息があります!」


 その声を聞いた瞬間、ルシアンはわずかに息を吐いた。けれど安堵している暇はなかった。


 フェリクスが鋭く周囲を見回す。


「ルシアン! 水圧が変わった! 地下水路側が崩れる!」


 その瞬間だった。


 奥側の暗がりから、唸るような音が押し寄せてきた。壁の向こうで何かが壊れたのだと、考えるより先に分かった。次の瞬間、濁流が一気に流れ込む。黒い水が高さを増し、石段を横殴りに叩いた。地下全体が沈み込むように揺れ、立っている足元が一瞬浮いたように感じる。


 石段が崩れた。


 公爵の足元が大きく傾く。砕けた石が水の中へ吸い込まれ、黒いローブの裾が激流に巻き込まれた。それでも公爵は、なおセレネの方へ手を伸ばそうとしていた。


「器が必要だ……!」


 その声に、ルシアンの中で何かが切れかけた。だが、踏み込むより早く、エドガーが動いた。


 エドガーは反射的に公爵の腕を掴んだ。


 一瞬、ルシアンは目を見開いた。助けるのかと思った。あれほどの言葉を浴びせられても、なお公爵を水から引き上げようとしているのかと。


 だが違った。


 エドガーは苦しそうに顔を歪めながら、公爵の身体をセレネの方へ行かせないよう、石段の側へ押し戻していた。助けるためではない。止めるためだった。


「もう終わりなんです!」


 その声が響いた直後、祭壇下部が完全に崩落した。


 轟音が地下を裂いた。石組みがまとめて砕け、大量の水が一気に流れ込む。足元から空気が押し出されるような圧が走り、濁流が公爵の身体を横から呑み込んだ。


 黒いローブが大きく広がり、水の中で重たく沈んでいく。公爵の手が、なお何かを掴もうとするように伸びた。セレネへ向けられたのか、失われた儀式へ向けられたのか、ルシアンには分からない。ただ、その指先は何にも届かなかった。


「ノクシア――」


 掠れた声は、最後まで続かなかった。


 激流が全てを呑み込み、公爵の姿は黒い水底へ消えた。水面にはしばらくローブの端のようなものが揺れた気がしたが、次の瞬間には濁流に巻かれ、見えなくなった。


 地下へ、轟音だけが響いていた。


 ルシアンは数秒、水面を睨み続けた。公爵が浮かび上がってくるかもしれない。どこかに手をかけるかもしれない。まだ何かを叫ぶかもしれない。そう思ったわけではない。ただ、あれほど歪んだ執着を見せた人間が、たった一度の濁流で完全に消えたことを、すぐには受け入れられなかった。


 だが、黒い水の底から浮かび上がってくるものはなかった。


 フェリクスが、低く言った。


「……終わったね」


 ルシアンは息を吐いた。肺の奥へ、湿った冷気が入り込む。喉が痛む。手の中の剣はまだ重く、肩にも腕にも力が残っていた。


 終わった。


 少なくとも、この狂った儀式は。


 そう思った瞬間、再び大きな崩落音が響いた。天井の亀裂がさらに広がり、上から落ちた石片が水面を叩く。フェリクスが即座に顔を上げた。


「感傷に浸ってる暇ないよ、ルシアン。今度こそ全部沈む」


 ルシアンは舌打ちし、振り返った。エレノアを抱えた隊員たち、濁流の中で体勢を立て直す特務隊、そしてセレネの位置を一瞬で確認する。誰一人、ここに残すわけにはいかなかった。


「全員、撤退だ!」


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