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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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終わる儀式

 地下の奥から響く轟音は、先ほどまでとは比べものにならないほど近くなっていた。

 遠くで水が暴れている音ではない。石を砕き、壁を削り、地下そのものを押し潰しながら迫ってくる音だった。天井に走っていた亀裂は、いつの間にか枝分かれするように広がり、そこから細かな砂粒が降り続けている。

 ときおり拳ほどの石片が剥がれ落ち、黒く濁った水面を叩いた。そのたびに水が跳ね、冷たい飛沫が頬や首筋にかかる。地下へ流れ込む水量も明らかに増えていた。石段は半ばまで水に沈み、足元では濁流が獣のようにうねっている。踏み締めているはずの床が、もう床ではなくなりかけていた。


「限界です! このままでは地下ごと崩れます!」


 特務隊員の一人が、崩落音に負けないよう声を張り上げた。その声には、訓練で抑え込んできたはずの焦りが滲んでいた。無理もない。ルシアン自身も、足裏から伝わる振動で分かっていた。この地下は、もう長くは持たない。上から崩れるだけではない。下からも、水に削られている。支えを失った場所から順に沈み、最後には祭壇も石段も通路も、まとめて呑み込まれる。


 それでも、祭壇の上に立つローディア公爵は動かなかった。

 崩れ始めた地下空間を見ていないわけではない。天井から落ちる石も、足元へ迫る水も、聞こえていないはずがなかった。それなのに、公爵の視線は祭壇の中央に縫い止められたままだった。


 そこには、エレノアが横たわっている。


 白い布は水気を含み、肌に張りつくように重く沈んでいた。滲んだ血は、先ほど見たときよりもさらに広がっている。水に薄まり、布の繊維を伝いながら淡く伸びていた。その色が、地下の暗さの中で妙に目に残る。ルシアンは奥歯を噛み締めた。呼吸があるのか、傷がどこまで深いのか、この距離から断定はできない。ただ、早く下ろさなければならない。それだけは確かだった。


 公爵が、ゆっくりと口を開いた。


「なぜだ……」


 その声は、崩落音に掻き消されそうなほど掠れていた。威厳を保とうとする者の声ではない。長い時間信じていたものが、目の前で崩れかけている人間の声だった。


「条件は揃っていた」


 水音の中へ、公爵の低い呟きが沈んでいく。だがルシアンの耳には、はっきり届いた。


「恐怖は広がった。王都は十分に怯えた。贄も、器も、全て用意した」


 公爵の目が、わずかに揺れた。狂信者の熱とは違う。もっと生々しい、失敗を認められない者の揺らぎだった。


「なのになぜ現れない」


 フェリクスが、崩れかけた石柱を見上げながら息を吐いた。緊迫した状況の中でも、兄の声は不思議なほど平坦だった。


「最初から存在してないからじゃない?」


 軽く聞こえる口調だった。だがその目は笑っていない。天井、壁、支柱、水の流れ、逃げ道。全てを同時に測っている目だった。


「この揺れ方はまずいなぁ。地下水路側の支柱がやられてる。崩れる順番が早まったね」


 その言葉に、公爵の表情が変わった。


 ルシアンは、その変化を見逃さなかった。張りついていた静けさが剥がれ、奥に沈んでいたものが顔を出す。今まで公爵は、儀式の失敗すらもまだ受け入れず、どこか自分だけは高みにいるような顔をしていた。だが今の一言で、その薄い膜が破れた。


「黙れ」


 低い声だった。だが先ほどまでとは違う。押し殺していた苛立ちが、刃のように混じっている。


 次の瞬間、地下全体が大きく揺れた。足元の石が唸り、壁の奥で何かが砕ける鈍い音が連続する。耐えきれなくなった石柱の一本が、ゆっくり傾いた。上部が天井を擦り、砕けた石を撒き散らしながら、黒い水面へ倒れ込む。凄まじい音が地下に反響し、濁流が跳ね上がった。水の塊が祭壇の下段へ叩きつけられ、近くにいた隊員たちが思わず体勢を崩す。


 ルシアンは剣の柄を握り直した。濡れた革の感触が手のひらにまとわりつく。だが力は緩めない。


「エレノアを下ろせ!」


 命令に、特務隊員二人が即座に動いた。水に足を取られながらも、祭壇へ向かって進む。腰まで伸びそうな水流の中で足場は悪く、石段の位置も見えにくい。だが迷っている余裕はなかった。


 横で、フェリクスが天井の亀裂を見上げながら低く言った。


「ルシアン、長く持たないよ。この地下、水路ごと沈む」


 ルシアンは舌打ちした。焦りが胸の奥で膨らむ。だが声に乗せれば、隊員たちにも伝わる。ここで崩れるわけにはいかない。


「分かってる、兄上」


 そのときだった。


 祭壇の上で、公爵が一歩前へ出た。


「触れるな」


 低い声が、地下の湿った空気を裂いた。音量は大きくない。だがその声には、崩落の轟音とは別の重さがあった。ルシアンは視線を鋭くする。


 公爵の目には、もう先ほどまでの余裕がなかった。自分の思い通りに世界が進むと信じている者の目ではない。焦燥と執着が絡み合い、奇妙な熱を帯びている。水に濡れた前髪が額に張りつき、整っていたはずの衣服も崩れ、黒いローブの裾から水が滴っていた。それでも公爵は、エレノアを見下ろす位置から離れない。


「まだ終わっていない」


 その言葉に、ルシアンの中で嫌な予感が形を持った。


 公爵の視線が、ゆっくり動く。祭壇の上から濁流の中へ、隊員たちへ、フェリクスへ、そして最後に、セレネで止まった。


 その瞬間、ルシアンの背筋を冷たいものが走った。


 公爵の目が、セレネの黒髪に留まっている。水に濡れて重くなった髪。地下の暗がりの中でも、その黒ははっきりと見えた。ルシアンは公爵の視線の意味を読み取り、反射的に一歩前へ出た。


 公爵が、小さく呟く。


「……そうか」


 それは、何かに気づいた者の声だった。正しい答えを見つけた声ではない。追い詰められた者が、目の前の都合のいいものを答えだと思い込んだ声だった。


「足りなかったのは、器そのものか」


 セレネが静かに眉を寄せたのが見えた。怖がっているようには見えない。だが、彼女が何を考えているのかをルシアンが断定することはできなかった。ただ、その表情がいつもより硬くなったことだけは分かった。


 ルシアンはさらに半歩前に出る。


「セレネ、下がれ」


 公爵が笑った。


 その笑みは、先ほどまでの静かなものではなかった。余裕を装う笑みでも、相手を見下す笑みでもない。崩れかけた人間が、自分の内側だけに残った理屈へ縋りついているような、不安定な笑みだった。


「黒は夜を宿す」


 水音と崩落音の中で、公爵の声だけが妙にはっきり聞こえた。


「恐怖は夜へ集まる。そして夜は、最も深い場所へ辿り着く」


 ルシアンは、その言葉を理解しようとはしなかった。理解する必要もない。公爵がセレネを次の標的にした。それだけで十分だった。


 濁流が石段を叩き、砕けた石を押し流していく。地下水はすでに膝を超え始めていた。水の冷たさが脚にまとわりつき、動きを鈍らせる。周囲の隊員たちの表情にも焦りが広がっている。誰もが、この場所に残る時間がないことを知っていた。


「殿下! 急いでください!」


 隊員の声が飛ぶ。だが公爵は、まるで聞こえていないようにセレネから目を離さなかった。


 異様だった。


 この地下が崩れようとしていることも、エレノアが祭壇に残されていることも、自分の足元へ水が迫っていることも、公爵にとってはもう意味を失っているように見えた。今この瞬間、公爵の世界は、セレネの黒髪と、自分が信じ込んだ儀式だけになっている。


 ルシアンは剣を構えた。刃先が揺れないよう、肩の力を落とす。怒りで踏み込めば、水に足を取られる。焦れば隙が生まれる。だが胸の奥では、抑えきれない熱が燃えていた。


「それ以上近づいてみろ」


 公爵は止まらなかった。


 濡れた黒いローブを引きずりながら、一段ずつ石段を降りてくる。足元の段差はすでに水に隠れかけている。それでも公爵は、危うい足取りで前へ進む。老いた身体でありながら、その執着だけが体を動かしているようだった。


 そのとき、水を切る音が響いた。


 ルシアンの視線がわずかに動く。


 エドガーだった。


 今までほとんど動かなかった彼が、公爵の前へ立ちはだかっていた。水に濡れた髪が額に張りつき、右袖からは血が流れている。傷の深さまでは分からない。ただ、その袖口から落ちた赤が黒い水面に触れ、小さく滲むのが見えた。


 公爵が、わずかに目を細める。


「退け」


 エドガーは答えなかった。


 ただ、公爵の進行を遮るように立っている。背筋は完全には伸びていない。痛みに耐えているのか、足元の水流に抗っているのか、肩がわずかに揺れていた。それでも退かなかった。公爵へ剣を向けるでもなく、言葉で責めるでもなく、ただその場に立つことで止めている。


 数秒の沈黙が落ちた。


 地下の崩れる音が、かえってその沈黙を濃くする。水は流れ続け、石は落ち続けている。誰かが息を呑んだ気配がした。ルシアンは剣を構えたまま、公爵とエドガーの距離を測る。公爵が少しでも無理に動けば、踏み込むつもりだった。


 やがて、公爵が低く吐き捨てた。


「役立たずが」


 その瞬間、エドガーの表情がわずかに強張った。ルシアンからは、頬の筋肉が引き攣ったように見えた。だが、それでもエドガーは退かなかった。


 ルシアンは、その姿を見て息を詰めた。


 忠誠なのか、後悔なのか、あるいは最後に残った意地なのか。それを今のルシアンが決めつけることはできない。ただ、エドガーがこの崩れかけた地下で、公爵の前に立った。その事実だけがあった。


 次の瞬間、地下全体へさらに大きな崩落音が響いた。


 天井の一部が砕け、そこから水が一気に流れ込んでくる。今まで隙間から漏れていたものとは違う。壁の向こうに溜まっていた流れが、支えを失って雪崩れ込んできたような勢いだった。濁流が石段を呑み込み、祭壇の土台へ横から叩きつけられる。石と石の噛み合う音が歪み、足元から鈍い軋みが伝わってきた。


 フェリクスが顔を上げる。


「まずい、祭壇ごと落ちる!」


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