黒き器②
その声と同時に、公爵が祭壇へ置いていた右手をゆっくり持ち上げた。
白い指先には、乾いた赤黒い跡がこびりついている。
祭壇表面へ刻まれた溝には、いつの間にか黒ずんだ液体が流れ込んでいた。複雑な紋様をなぞるように広がり、石の隙間をゆっくり満たしていく。
血だった。
地下へ漂っていた鉄臭さがさらに濃くなる。
ルシアンは祭壇下部へ目を向けた。
石台の側面には、古い排水路のような穴が幾つも走っている。その奥から黒い水が絶えず流れ込み、祭壇内部へ吸い込まれていた。
どこか異様ではある。
だが、そこにルシアンは神秘を感じなかった。
水の流れも、祭壇の構造も、全て人の手で積み上げられたものに見えた。
その執着だけが異常だった。
公爵は静かに口を開く。
「器は完成した」
視線が横たわるエレノアへ落ちる。
「長い年月だった。失敗も多かった。耐えきれず壊れた者もいた」
淡々とした声音だった。
そこに後悔はない。
ルシアンは眉を寄せる。
「……今までにもやっていたのか」
公爵は否定しなかった。
地下空間へ水音だけが響く。
次の瞬間、祭壇上のエレノアが小さく喉を震わせた。
苦しげな呼吸音が漏れる。
セレネが鋭く目を細めた。
「……まだ意識があります」
ルシアンは即座に祭壇へ視線を戻した。
確かに、白い布が僅かに上下している。
浅いが、呼吸は続いていた。
生きている。
だが顔色は悪く、指先にもほとんど力が入っていない。
そのとき、公爵が静かに両腕を広げた。
「ノクシアよ」
低い声が地下空間へ響く。
「今こそ、この器へ――」
直後、地下全体が激しく揺れた。
轟音と共に奥側の石柱へ大きな亀裂が走る。砕けた石片が水面へ落下し、黒い飛沫が一斉に跳ね上がった。
特務隊員達が反射的に身構える。
「崩れるぞ!」
さらに水流が増した。
祭壇周囲へ渦のような流れが生まれ、足場そのものが不安定になっていく。
冷たい水が石段を叩き、地下全体へ重たい反響音が広がった。
だが、それ以上にルシアンの目を引いたのは、公爵の表情だった。
何かを待っている。
確信していた何かが起こるのを。
しかし、何も起きない。
祭壇へ刻まれた溝を血が流れ続けるだけだった。
地下へ響くのは崩落音と水音ばかりで、空気が変わる気配もない。
フェリクスが険しい顔で呟く。
「……失敗してるのか」
公爵の目が揺れた。
「なぜだ……」
初めて声に焦りが混じる。
「恐怖は集まった。条件は満たしたはずだ」
ルシアンは低く吐き捨てた。
「噂を広げ、人を殺し、怯えさせた。その先にあるのがこれか」
公爵が鋭く顔を上げる。
「黙れ!」
怒声が地下へ反響した。
その瞬間、さらに大きな振動が走る。
天井の一部が崩れ、濁流のような水が奥から流れ込んできた。
特務隊員の一人が顔色を変える。
「退路が塞がれる!」
水位が一気に上がった。
膝近くまで達した水流が勢いよく脚へぶつかり、立っているだけでも体勢を持っていかれそうになる。
石柱の一つが鈍い音を立てながら傾き始めた。
地下遺構そのものが限界へ近づいている。
その中で、公爵だけが祭壇上へ立ち尽くしていた。
崩れ始めた空間を見ながらも、なお祭壇から目を離さない。
信じていたものが現れる瞬間を、まだ待ち続けているようだった。




