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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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黒き器①

 地下空間へ、重たい水音が絶え間なく響いていた。


 祭壇の周囲を流れていた水は、先ほどよりさらに増えている。石柱の下部は既に黒い水へ沈み始め、揺れる蝋燭の灯りが水面へ不規則な影を落としていた。湿った空気には古い石と血の匂いが混ざり、息を吸うたび肺の奥まで冷たさが入り込んでくる。


 地下空間中央には、巨大な石造祭壇が築かれていた。


 三段ほど高く積み上げられた祭壇は、水面から浮かび上がるような位置にあり、その最上段へ立つ人間を自然と見上げる形になる。


 ローディア公爵は、その高い位置へ静かに立っていた。


 黒いローブは地下水を吸って重たく垂れ下がり、背後では無数の蝋燭が揺れている。祭壇へ刻まれた古い紋様は、水面反射のせいで輪郭を歪ませ、ときおり動いたようにも見えた。


 だが、この異様な空間の中で、公爵だけが不気味なほど落ち着いていた。


 崩れかけた地下遺構も、増え続ける水も、まるで最初から受け入れているような顔をしている。


 祭壇中央には、白い布を纏ったエレノアが横たえられていた。


 長い金髪は濡れた石床へ広がり、衣装の裾には赤黒い血が滲んでいる。青白い横顔は眠っているようにも見えたが、次の瞬間、その右手の指先が僅かに動いた。


 ルシアンは目を細める。


「……まだ生きているな」


 低く呟いた直後、公爵の視線がゆっくりエドガーへ向いた。


 高所から見下ろされる形になり、その視線には妙な圧迫感があった。


「お前は結局、戻ったのだな」


 エドガーの肩が僅かに強張る。


 返事はない。


 濡れた前髪の隙間から覗く横顔は硬く、右袖へ滲んだ血だけがやけに生々しかった。


 公爵は責める様子もなく、小さく笑う。


「迷っていたようだが、最後にはここへ来ると思っていた」


 穏やかな口調だった。


 まるでエドガーが何を考え、どう動くのかを、最初から分かっていたかのような言い方に、ルシアンは小さく眉を寄せる。


 エドガーの表情には、単なる緊張だけではないものが浮かんでいた。


 怯えとも違う。


 何かを押し殺しながら立っているような、不自然な硬さがある。


 やがて公爵の視線がセレネへ移った。


 黒髪を見た瞬間、その目が静かに細められる。


「やはり黒は美しい」


 その言葉と同時に、ルシアンの空気が変わった。


 剣を握る手へ力が入る。


 公爵は祭壇へ片手を置いたまま、静かな声で続けた。


「古き時代、黒は夜を宿す色だった。人は光ばかりを崇めたがる。だが、夜なくして世界は成立しない」


 地下へ流れ込む水音が反響する。


 先ほどよりも水量が増えていた。


 石段へぶつかる流れの音が徐々に大きくなり、足元へ冷たい飛沫が飛んでくる。


「恐怖も同じだ。人は恐怖を否定しながら、その感情に最も強く支配される」


 ルシアンの脳裏へ、王都で広がっていた噂が蘇る。


 夜の水辺で聞こえる歌声。黒髪の女を見たという証言。死体の近くへ残されていた赤いリボン。そして、人々が恐れるようになった水鏡の魔女の噂。


 最初は無関係に見えていた断片が、ようやく一本へ繋がり始めていた。


 この男は最初から、王都全体へ恐怖を植え付けていたのだ。


「王都の人間達は、実によく怯えてくれた」


 公爵が静かに笑う。


「水辺を恐れ、夜を恐れ、黒髪を恐れた。その恐怖は噂となって広がり、人から人へ渡り続ける。そして、やがて形を持ち始める」


 フェリクスが険しい顔で呟く。


「集合意識か」


「名などどうでもいい」


 公爵は淡々と返した。


「大勢の恐怖は、いずれ存在へ近づく」


 ルシアンは低く吐き捨てる。


「狂ってる」


 公爵の目が僅かに細まった。


「狂気なくして、世界は変わらぬ」


 静かな声だった。


 だが、その奥には揺るぎのない確信があった。


 ルシアンは公爵を睨みつける。


 本気だ。


 この男は本気でノクシアを信じている。


 本気で神降ろしを成立させようとしている。


 だがルシアンには、そこへ神秘性など感じられなかった。


 見えるのは、人間の執着だけだ。


 噂を流し、人を操り、恐怖を煽り、血を集め続けた。その果てが、この地下空間だった。


 そのとき、地下奥から重たい振動が響いた。


 同時に祭壇周囲の水位がさらに上昇する。


 黒い水面が勢いを増し、石段へ激しくぶつかりながら渦を作っていた。地下全体が低く軋み、石柱の一部から小さな亀裂音まで響き始める。


 特務隊員の一人が顔色を変えた。


「まずい、水が……!」


 流れ込む勢いが明らかに強くなっていた。


 古い地下遺構そのものが限界へ近づいている。


 フェリクスも周囲を見回しながら低く呟く。


「これ、本当に崩れるかもしれない……」


 だが、公爵だけは動じない。


 むしろ恍惚とした表情で、水面を見下ろしていた。


「聞こえるか」


 静かな声だった。


「水底が開こうとしている」


 その目は熱に浮かされていた。


 まるで、自分だけが真実へ辿り着いたと信じ切っている人間の目だった。


 ルシアンは剣を強く握る。


「セレネ、下がってろ」


 低く言いながら、一歩前へ出る。


 その瞬間、公爵がゆっくり笑った。


「もう遅い」

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