沈みゆく祭壇
地下奥から響く水音は、先ほどより明らかに大きくなっていた。
足元を流れる水も、じわじわと水位を増している。
冷たい地下水が靴を濡らし、石床を不気味に反射していた。
ルシアンは険しい顔のままエドガーを見る。
「先導しろ」
短い命令だった。
エドガーは小さく頷くと、すぐ奥の通路へ足を向けた。
普段の落ち着いた歩き方ではない。
焦りを押し殺しているのが分かる速度だった。
特務隊員達も緊張したまま後へ続く。
通路はさらに狭くなっていった。
天井は低く、場所によっては大人の男が少し身を屈めなければ進めないほどだ。
石壁には古い苔が張り付き、流れ込んだ水が細く滴っている。
地下特有の湿った空気へ、鉄臭さが濃く混じり始めていた。
セレネは前を歩くエドガーを静かに見つめる。
右袖へ付着した血はまだ乾ききっていない。
それに、彼は時折無意識に左手を握り込んでいた。
緊張している。
あるいは、迷っている。
そのどちらにも見えた。
やがて通路が下り坂へ変わる。
同時に、水量が一気に増えた。
流れる音も激しくなり、地下全体が低く唸っているように聞こえる。
フェリクスが顔をしかめる。
「これ……かなり水位上がってない?」
「ええ」
セレネも周囲を見回す。
壁際には古い水位線が残っていた。
だが今、水はその線を越え始めている。
地下水路としては異常な増え方だった。
ルシアンが前を向いたまま問う。
「何をした」
エドガーは数秒だけ黙る。
そして低く答えた。
「地下貯水路の水門です」
フェリクスの表情が変わる。
「水門?」
「古い王都時代の設備です。今は使われていません」
エドガーは足を止めず続ける。
「ですが、公爵は祭壇区画へ水を流し込もうとしている」
地下空間へ水音が反響する。
セレネは小さく眉を寄せた。
「……儀式のためですか」
「はい」
短い返答だった。
ルシアンの空気が僅かに鋭くなる。
「本当に神が降りると思ってるのか」
その問いに、エドガーはすぐ答えなかった。
地下へ響く水音だけが続く。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「公爵は、本気です」
その声は妙に静かだった。
「ノクシアは水底より現れ、黒き器へ宿る。古い記録を、あの人は本気で信じている」
フェリクスが険しい顔になる。
「馬鹿げてる」
「ええ」
エドガーは否定しなかった。
「ですが、公爵は止まりません」
その時だった。
ゴォォォ――……。
地下奥から重たい振動が響く。
同時に、水流が一気に強くなった。
「っ!」
特務隊員の一人が体勢を崩しかける。
ルシアンが咄嗟に腕を掴んだ。
「気を抜くな!」
水位はもう足首近くまで来ていた。
しかもまだ増えている。
セレネは周囲へ視線を巡らせる。
石壁の古い継ぎ目。
削られた跡。
そして、水圧で軋み始めている通路。
「……このままだと地下区画そのものが崩れる可能性があります」
フェリクスが顔を上げた。
「そんな規模なの?」
「古い地下構造は水圧に弱いんです。特に、使われていない場所ほど脆い」
セレネは静かに続ける。
「もし水門を強引に開いているなら、祭壇だけでは済みません」
エドガーの表情が僅かに歪んだ。
その顔を見て、ルシアンの目が細まる。
「……お前、知ってたのか」
低い声だった。
エドガーは答えない。
だが、その沈黙だけで十分だった。
ルシアンは小さく舌打ちする。
問い詰めたいことはいくらでもある。
だが今は時間がない。
地下奥から流れてくる水量が、それを許さなかった。
やがて通路が大きく開ける。
その瞬間、全員が息を呑んだ。
巨大な地下空間だった。
天井は高く、無数の石柱が並んでいる。
だが、その半分以上が既に水へ沈み始めていた。
地下空間中央には、古びた巨大祭壇が築かれている。
黒ずんだ石で組まれた祭壇表面には、見たこともない古い紋様が刻まれていた。
その周囲を囲むように無数の蝋燭が灯され、水面へ不気味な揺らぎを映している。
そして祭壇中央。
黒いローブ姿の男が立っていた。
ローディア公爵だった。
その姿を見た瞬間、エドガーの表情が強張る。
ルシアンも剣を握る手へ力を込めた。
祭壇の上には、もう一人。
白い布を纏った女性が横たえられている。
長い金髪が、水気を含んだ石床へ広がっていた。
「……エレノア様」
セレネが小さく息を呑む。
エレノアは動かない。
眠っているようにも見える。
だが、祭壇周囲には赤黒い血が幾重にも広がっていた。
しかもその血は、水へ溶けるように祭壇下へ流れ落ちている。
まるで地下そのものへ血を捧げているようだった。
その時だった。
ローディア公爵が、ゆっくりこちらを振り返る。
水音が響く地下空間で、その口元だけが静かに笑っていた。




