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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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地下の再会

 崩れた石壁の奥からは、絶え間なく水音が響いていた。


 地下水路を流れる音とは明らかに違う。もっと深く、重たい場所で反響しているような、不気味な水音だった。


 ルシアンは石壁の隙間を睨みつける。


 崩落によって半ば塞がれているが、人一人なら通れそうな幅はある。その奥から流れてくる空気は異様に冷たく、湿気へ混じって鉄臭さまで漂っていた。


 特務隊員の一人が慎重にランタンを差し入れる。


 だが灯りは奥まで届かず、闇へ飲まれるように消えていく。


「……かなり深いですね」


 隊員が低く呟いた。


 セレネは石壁近くへしゃがみ込み、床へ残る泥跡を見つめていた。


 引きずられた跡は奥へ続いている。


 しかも途中から血痕が増えていた。


 壁へ縋るように掴んだ跡まで残っている。


 誰かが、かなり必死に抵抗していた。


 ルシアンの表情が険しくなる。


「……エレノア嬢か」


「可能性は高いですね」


 セレネが静かに答える。


 その時だった。


 奥の暗闇から、水を踏む音が響く。


 チャプ――。


 全員の空気が変わった。


 特務隊員達が一斉に剣を抜き、ランタンが奥へ向けられる。


 地下の冷気が肌へ張りつくようだった。


 ルシアンが低く問う。


「……誰だ」


 返事はない。


 だが、確かに気配がある。


 水音がゆっくり近づいてくる。


 一定ではない。


 まるで足場を確かめながら歩いているような、不安定な足音だった。


 チャプ……チャプ……。


 やがて暗闇の奥へ、ぼんやり人影が浮かび上がる。


 長身の男だった。


 濡れた黒い外套を羽織り、片手を石壁へついている。呼吸は浅く、肩も僅かに上下していた。


 ランタンの灯りがその顔を照らした瞬間、フェリクスが目を見開く。


「……エドガー?」


 銀縁眼鏡が地下灯りを鈍く反射する。


 だが、普段と様子が違っていた。


 髪は乱れ、頬には泥が付着し、右袖には血まで滲んでいる。


 まるで地下を走り続けてきたような姿だった。


 ルシアンの目が鋭く細まる。


「何でお前がここにいる」


 低い声だった。


 特務隊員達も警戒を解かない。


 地下空間の空気が完全に張り詰める。


 エドガーは数秒だけ黙ったまま、水路奥を振り返った。


 その表情は暗く、どこか焦っているようにも見えた。


「……遅かったですね」


 静かな声が地下へ落ちる。


 ルシアンが一歩前へ出る。


「エレノア嬢はどこだ」


 エドガーは答えない。


 代わりにゆっくり視線を上げる。


 銀縁眼鏡の奥の瞳が、地下灯りの中で静かに揺れていた。


「まだ間に合います」


 その瞬間、ルシアンの空気が変わる。


「質問に答えろ」


「説明している時間がありません」


 エドガーの声は珍しく硬かった。


 普段の穏やかさが消えている。


 セレネは静かにエドガーを見つめていた。


 右袖には血が滲み、靴には地下水路の泥が深くこびりついている。呼吸も普段より浅く、銀縁眼鏡の端には細かな泥まで跳ねていた。


 地下奥から戻ってきたのは間違いない。


 そして、その血が新しいことも。


「……エドガー様」


 セレネが静かに口を開く。


 エドガーの視線が向く。


「その血は、誰のものですか」


 一瞬だけ沈黙が落ちた。


 水音だけが地下へ響く。


 エドガーは小さく目を伏せ、それから低く答えた。


「私のではありません」


 ルシアンの表情がさらに険しくなる。


「だったら誰の血だ」


 エドガーは再び奥を振り返った。


 その仕草だけで地下空間の空気が変わる。


 何かが、この先にいる。


 そう感じさせる視線だった。


「……ローディア公爵が動いています」


 フェリクスが目を細める。


「生きてたのか」


「はい」


 エドガーは短く答える。


「そして、既に儀式を始めています」


 ルシアンが低く舌打ちする。


「場所は」


 エドガーは迷うように数秒だけ沈黙した後、小さく息を吐いた。


「このすぐ奥にある祭壇です」


 その瞬間、地下空間の空気がさらに張り詰める。


 ルシアンの視線が鋭くなる。


「そんな場所、地図にはなかったぞ」


「意図的に消されています。古いノクシア信仰時代の祭壇です」


 フェリクスの顔色が変わった。


「……まさか、402年の記録か」


 エドガーが初めてフェリクスを見る。


「気づいていたんですね」


 ルシアンは険しい顔のまま一歩前へ出る。


「お前、どこまで知ってる」


 地下へ重い沈黙が落ちた。


 エドガーは答えない。


 代わりに、小さく眼鏡を押し上げる。


 その指先が僅かに震えていた。


「僕の話は後で構いません」


 静かな声だった。


 だが、その奥には切迫感が滲んでいる。


「急いでください。公爵はもう、止まりません」


 次の瞬間だった。


 地下奥から低い地鳴りのような音が響く。


 同時に足元の水が揺れた。


 セレネの表情が変わる。


「……水位が上がっています」


 地下通路の奥から流れ込む水量が、明らかに増えていた。


 エドガーが低く呟く。


「始まったんです」

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