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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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消えた令嬢②

 ルシアンは細い通路の奥を見つめたまま、小さく眉を寄せた。


「……行けそうか」


 特務隊員が石壁へ触れながら頷く。


「幅は狭いですが、人一人は通れます」


 崩落しかけているせいで空気が重い。石壁の隙間からは冷たい水がじわりと滲み、通路全体へ湿った匂いが満ちていた。


 奥から流れてくる水音も、先ほどまでとは少し違う。


 地下水路を流れる音というより、もっと深い場所で反響しているような、不気味な響き方だった。


 フェリクスが嫌そうに顔をしかめる。


「これ以上進むの、正直かなり危険じゃない?」


「だが、人が消えた理由はこの先にある」


 ルシアンが低く返す。


 するとセレネが、通路入口近くへしゃがみ込んだ。


「……足跡があります」


 ランタンの灯りが石床を照らす。


 薄く泥が残っていた。


 しかも一人分ではない。


 地下の湿気で完全には乾ききっておらず、比較的新しいものだと分かる。


「先に進んだ跡しかありません」


 セレネが静かに呟く。


 ルシアンも近くへしゃがみ込み、石床へ視線を落とした。


 確かに、狭い通路へ向かう泥跡は残っている。


 だが、戻った痕跡が見当たらない。


 まるで誰も引き返していないようだった。


「……嫌な感じだな」


 フェリクスが小さく息を吐く。


 もしこの先が行き止まりなら、人が消えた説明がつかない。


 だが通路奥からは、確かに空気が流れてきている。


 つまり、まだ先がある。


 その時だった。


 カラン――。


 通路奥から、微かに音が響く。


 金属がぶつかったような、小さな音だった。


 全員の動きが止まる。


 特務隊員達が一斉に剣へ手を掛けた。


 地下の静寂がさらに重くなる。


 水滴の落ちる音だけがやけに大きく響いていた。


 ルシアンが低く問う。


「……聞こえたな」


「はい」


 特務隊員の一人が小さく頷く。


 ルシアンは数秒だけ考え込み、それから短く命じた。


「二手に分かれる。三人は地上へ戻れ。小公爵が王城へ着いたらすぐ俺に通せ。残りは俺と来い」


「はっ」


 命令を受けた隊員達が素早く動き始める。


 その中で、ルシアンはセレネへ視線を向けた。


 セレネは通路奥を見つめたまま、小さく息を整えている。


 平静を保っているように見えるが、長時間地下を歩き続けた疲労は隠しきれていなかった。


 ルシアンは小さく眉を寄せる。


「……疲れは本当に大丈夫なのか」


 セレネは少しだけ目を瞬いた。


 まさかそこを聞かれるとは思っていなかったようだった。


「問題ありません」


「顔色はさっきより悪い」


「地下が寒いだけです」


 即答だった。


 ルシアンはしばらく黙ったままセレネを見る。


 強がっているわけではない。


 本当に、自分はまだ動けると思っている顔だった。


 だから余計に厄介だった。


 数秒後、ルシアンは小さく息を吐く。


「……お前、どうせ戻る気ねぇだろ」


「はい」


 今度も迷いのない返事だった。


 フェリクスが苦笑する。


「確認するだけ無駄だったね」


「分かってたよ」


 ルシアンは額を押さえながら低く返した。


 そして改めてセレネを見る。


「だったら絶対一人で動くな。何かあったらすぐ俺を呼べ」


「分かりました」


 セレネが素直に頷く。


 その返事を見て、ルシアンは小さく舌打ちした。


「……ほんと、お前は」


 困ったような声だった。


 通路奥からは相変わらず冷たい空気が流れてくる。


 ランタンの灯りが石壁へ揺れ、不規則な影を作っていた。


 ルシアンは剣へ手を添えたまま、一歩前へ出る。


「行くぞ」


 狭い通路は、大人一人が通るので精一杯だった。


 石壁は近く、肩が擦れそうなほど狭い場所もある。足元には浅く水が溜まり、歩くたび小さく音が響いた。


 奥へ進むほど空気が冷える。


 それに混じって、微かに鉄臭い匂いも漂い始めていた。


 フェリクスが顔をしかめる。


「……血の匂い?」


 特務隊員達の空気が緊張する。


 ルシアンは無言のまま前を進んだ。


 やがて通路が少しだけ開ける。


 その瞬間、先頭の特務隊員が足を止めた。


「殿下」


 ランタンの灯りが前方を照らす。


 石壁には、新しい削れ跡が何本も残っていた。


 鋭利な刃物で切ったものではない。


 何か硬いものが壁へ擦れ、無理やり引きずられたような跡だった。


 しかも高さが低い。


 セレネが静かに近づく。


「……血」


 削れた石の隙間へ、乾ききっていない赤黒い染みが残っていた。


 壁へ縋るように指が滑った跡まで見える。


 ルシアンの表情が険しくなる。


「抵抗したのか」


 フェリクスも顔を曇らせた。


「爪が剥がれるくらい強く掴んだのかもね……」


 地下の空気が静かに冷える。


 その時だった。


 ――ガタン。


 通路奥から、今度ははっきりと音が響いた。


 何か重いものが倒れる音だった。


 全員が反射的に顔を上げる。


 ルシアンの目が鋭く細まった。


「……まだ誰かいる」

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