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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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神降ろし

 湿った石床を擦るような音が、地下奥から再び響いた。


 特務隊員達が一斉に身構える。ランタンの火が揺れ、地下水路の壁へ長い影を落とした。


 ルシアンは剣へ手を添えたまま低く告げる。


「……進むぞ」


 地下奥へ進むほど、水の匂いが濃くなっていく。


 通路幅も徐々に狭くなり、崩れかけた石壁には古い亀裂が走っていた。足元の水は浅いが、歩くたび小さく波紋が広がる。


 セレネは外套の裾を軽く押さえながら周囲を見回していた。


 地下の空気は冷たい。


 だが、それ以上に妙な圧迫感がある。


 まるで誰かの気配だけが、この場所へ沈殿しているようだった。


 先頭の特務隊員がランタンを掲げ直した瞬間、奥の空間がぼんやり浮かび上がる。


「……部屋?」


 フェリクスが小さく呟いた。


 地下水路の先には、半円状の広い空間が存在していた。


 中央には黒い布が敷かれ、その周囲を囲むように古い燭台が並んでいる。壁際には薬瓶や木箱が積まれ、水盤には黒ずんだ液体が残っていた。


 地下礼拝堂よりさらに古い。


 そんな空気だった。


 ルシアンはゆっくり室内へ足を踏み入れる。


 水滴の音だけが静かに反響していた。


「……完全に儀式場だな」


「最近まで使われていますね」


 セレネが静かに答える。


 壁際のランプには新しい煤が残り、薬瓶にもまだ液体が入っていた。木箱の蓋は開いたままで、中には乾ききっていない黒布が雑に押し込まれている。


 誰かが急いで離れた。


 そんな印象だった。


 フェリクスが棚の薬瓶を一本持ち上げる。


「これ、かなり強い薬物だね。匂いがきつい」


 小さく顔をしかめながら瓶を戻す。


「被害者に使われた可能性は高そう」


 ルシアンは中央の祭壇跡へ視線を向けた。


 床には複雑な紋様が描かれている。


 水を模した円。


 幾重にも重なる線。


 その中心だけが黒く変色していた。


 セレネは祭壇近くへ落ちていた紙束を拾い上げる。


 古い文字は所々滲み、一部は判別できない。


 だが、繰り返し出てくる単語があった。


『器』

『受肉』

『夜を映す髪』


 セレネが小さく眉を寄せる。


「……おかしいですね」


「何がだ?」


 ルシアンが問う。


 セレネは紙をめくりながら続けた。


「ノクシア神を“呼ぶ”記述がありません」


「……ああ、確かに妙だ」


 フェリクスが紙束を受け取り、ざっと目を通す。


 普段の軽い空気は消え、完全に学者の顔になっていた。


「“外から神格を呼ぶ儀式”には、ある程度共通点があるんだよ。例えば神の真名、降臨の許可、祈祷文、供物……そういう“招く工程”が本来は記されていてもおかしくない」


 フェリクスは紙面を指先で軽く叩く。


「でも、ここに書かれてるのはそうじゃない。“神を呼ぶ方法”じゃなく、“器側を変質させる工程”ばかりなんだ」


 セレネが静かに視線を落とす。


『器を満たせ』

『恐怖を染み込ませよ』

『夜を宿せ』


 そこに並んでいるのは、人間側を書き換えるような言葉ばかりだった。


「……本当に準備しか書かれていないんですね」


 セレネが小さく呟く。


 フェリクスが頷いた。


「ああ。むしろ、“人間を神へ近づけている”感じに近い」


 地下室へ冷たい沈黙が落ちる。


 ぽたり、と水滴が落ちた。


 セレネはゆっくり顔を上げる。


「……つまりこれは、神を呼ぶ儀式ではなく、“人を器へ変える儀式”なのかもしれません」


 ルシアンは無意識に拳を握っていた。


 今まで怪異として語られてきたものは、最初から存在した化け物ではなかったのかもしれない。


 黒髪の女性へ恐怖を重ね、水辺と歌声を結びつけ、失血死体を“魔女の仕業”に見せる。


 誰かが長い時間をかけて、“水鏡の魔女”という怪異を作り上げていた。


「……胸糞悪ぃな」


 低い声が漏れる。


 その時だった。


 特務隊員の一人が、棚奥から古い羊皮紙を引き抜いた。


「殿下、こちらを」


 ルシアンが受け取る。


 そこには掠れた文字で、日時のようなものが記されていた。


『夜半、水鏡満ちる刻』

『三日後』


 ルシアンの表情が険しくなる。


「三日後か……」


「儀式の日付でしょうね」


 フェリクスが低く呟く。


 残された時間は、ほとんどない。


 だが、その直後だった。


 セレネが別の紙へ視線を止める。


『王家の器は不要』


 短く、それだけ記されていた。


 セレネは小さく眉を寄せる。


「……器候補を変更したのでしょうか」


「変更?」


 ルシアンが視線を向ける。


「最初、水鏡の魔女の噂は、黒髪の女性全体へ向けられていました。でも途中から、“ローディア家周辺”へ集中しているんです」


「ああ……赤いリボンの流行も、ローディア家夜会以降だったね」


 フェリクスが思い出したように呟く。


 セレネが頷く。


「地下水路もローディア家側へ繋がっている。さらに、ここでエレノア様の持ち物と似た髪飾りも見つかっています」


 ルシアンは眉を寄せた。


「……待て。ノクシアの器は、“黒髪の乙女”じゃなかったのか」


「エレノア嬢は金髪だよね」


 フェリクスも小さく首を傾げる。


 セレネは紙を見つめたまま静かに口を開いた。


「……完全な条件ではなかったのかもしれません」


「どういう意味だ?」


「古い記録では、“高位貴族の娘”や、“王家へ近い血”を示唆する記述もありました。黒髪は理想条件。でも絶対条件ではない可能性があります」


 フェリクスが小さく息を吐く。


「つまり、“器としての格”が重要なのか」


「はい」


 地下室へ重い沈黙が落ちる。


 ルシアンは険しい顔のまま祭壇を見つめた。


「……だとしても、まだエレノア嬢が関わってると決まったわけじゃない」


「はい。髪飾りだけでは断定できません」


 セレネも静かに頷く。


 ルシアンはすぐ後ろの特務隊員へ視線を向けた。


「お前、すぐ地上へ戻れ」


「はっ」


「ローディア小公爵へ連絡。エレノア嬢の所在確認を急がせろ」


 特務隊員はすぐに踵を返し、地下通路を駆けていく。


 その背を見送りながら、ルシアンは小さく舌打ちした。


 もしエレノアが既に姿を消していたなら。


 儀式は、もう始まっているのかもしれなかった。

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