神降ろし
湿った石床を擦るような音が、地下奥から再び響いた。
特務隊員達が一斉に身構える。ランタンの火が揺れ、地下水路の壁へ長い影を落とした。
ルシアンは剣へ手を添えたまま低く告げる。
「……進むぞ」
地下奥へ進むほど、水の匂いが濃くなっていく。
通路幅も徐々に狭くなり、崩れかけた石壁には古い亀裂が走っていた。足元の水は浅いが、歩くたび小さく波紋が広がる。
セレネは外套の裾を軽く押さえながら周囲を見回していた。
地下の空気は冷たい。
だが、それ以上に妙な圧迫感がある。
まるで誰かの気配だけが、この場所へ沈殿しているようだった。
先頭の特務隊員がランタンを掲げ直した瞬間、奥の空間がぼんやり浮かび上がる。
「……部屋?」
フェリクスが小さく呟いた。
地下水路の先には、半円状の広い空間が存在していた。
中央には黒い布が敷かれ、その周囲を囲むように古い燭台が並んでいる。壁際には薬瓶や木箱が積まれ、水盤には黒ずんだ液体が残っていた。
地下礼拝堂よりさらに古い。
そんな空気だった。
ルシアンはゆっくり室内へ足を踏み入れる。
水滴の音だけが静かに反響していた。
「……完全に儀式場だな」
「最近まで使われていますね」
セレネが静かに答える。
壁際のランプには新しい煤が残り、薬瓶にもまだ液体が入っていた。木箱の蓋は開いたままで、中には乾ききっていない黒布が雑に押し込まれている。
誰かが急いで離れた。
そんな印象だった。
フェリクスが棚の薬瓶を一本持ち上げる。
「これ、かなり強い薬物だね。匂いがきつい」
小さく顔をしかめながら瓶を戻す。
「被害者に使われた可能性は高そう」
ルシアンは中央の祭壇跡へ視線を向けた。
床には複雑な紋様が描かれている。
水を模した円。
幾重にも重なる線。
その中心だけが黒く変色していた。
セレネは祭壇近くへ落ちていた紙束を拾い上げる。
古い文字は所々滲み、一部は判別できない。
だが、繰り返し出てくる単語があった。
『器』
『受肉』
『夜を映す髪』
セレネが小さく眉を寄せる。
「……おかしいですね」
「何がだ?」
ルシアンが問う。
セレネは紙をめくりながら続けた。
「ノクシア神を“呼ぶ”記述がありません」
「……ああ、確かに妙だ」
フェリクスが紙束を受け取り、ざっと目を通す。
普段の軽い空気は消え、完全に学者の顔になっていた。
「“外から神格を呼ぶ儀式”には、ある程度共通点があるんだよ。例えば神の真名、降臨の許可、祈祷文、供物……そういう“招く工程”が本来は記されていてもおかしくない」
フェリクスは紙面を指先で軽く叩く。
「でも、ここに書かれてるのはそうじゃない。“神を呼ぶ方法”じゃなく、“器側を変質させる工程”ばかりなんだ」
セレネが静かに視線を落とす。
『器を満たせ』
『恐怖を染み込ませよ』
『夜を宿せ』
そこに並んでいるのは、人間側を書き換えるような言葉ばかりだった。
「……本当に準備しか書かれていないんですね」
セレネが小さく呟く。
フェリクスが頷いた。
「ああ。むしろ、“人間を神へ近づけている”感じに近い」
地下室へ冷たい沈黙が落ちる。
ぽたり、と水滴が落ちた。
セレネはゆっくり顔を上げる。
「……つまりこれは、神を呼ぶ儀式ではなく、“人を器へ変える儀式”なのかもしれません」
ルシアンは無意識に拳を握っていた。
今まで怪異として語られてきたものは、最初から存在した化け物ではなかったのかもしれない。
黒髪の女性へ恐怖を重ね、水辺と歌声を結びつけ、失血死体を“魔女の仕業”に見せる。
誰かが長い時間をかけて、“水鏡の魔女”という怪異を作り上げていた。
「……胸糞悪ぃな」
低い声が漏れる。
その時だった。
特務隊員の一人が、棚奥から古い羊皮紙を引き抜いた。
「殿下、こちらを」
ルシアンが受け取る。
そこには掠れた文字で、日時のようなものが記されていた。
『夜半、水鏡満ちる刻』
『三日後』
ルシアンの表情が険しくなる。
「三日後か……」
「儀式の日付でしょうね」
フェリクスが低く呟く。
残された時間は、ほとんどない。
だが、その直後だった。
セレネが別の紙へ視線を止める。
『王家の器は不要』
短く、それだけ記されていた。
セレネは小さく眉を寄せる。
「……器候補を変更したのでしょうか」
「変更?」
ルシアンが視線を向ける。
「最初、水鏡の魔女の噂は、黒髪の女性全体へ向けられていました。でも途中から、“ローディア家周辺”へ集中しているんです」
「ああ……赤いリボンの流行も、ローディア家夜会以降だったね」
フェリクスが思い出したように呟く。
セレネが頷く。
「地下水路もローディア家側へ繋がっている。さらに、ここでエレノア様の持ち物と似た髪飾りも見つかっています」
ルシアンは眉を寄せた。
「……待て。ノクシアの器は、“黒髪の乙女”じゃなかったのか」
「エレノア嬢は金髪だよね」
フェリクスも小さく首を傾げる。
セレネは紙を見つめたまま静かに口を開いた。
「……完全な条件ではなかったのかもしれません」
「どういう意味だ?」
「古い記録では、“高位貴族の娘”や、“王家へ近い血”を示唆する記述もありました。黒髪は理想条件。でも絶対条件ではない可能性があります」
フェリクスが小さく息を吐く。
「つまり、“器としての格”が重要なのか」
「はい」
地下室へ重い沈黙が落ちる。
ルシアンは険しい顔のまま祭壇を見つめた。
「……だとしても、まだエレノア嬢が関わってると決まったわけじゃない」
「はい。髪飾りだけでは断定できません」
セレネも静かに頷く。
ルシアンはすぐ後ろの特務隊員へ視線を向けた。
「お前、すぐ地上へ戻れ」
「はっ」
「ローディア小公爵へ連絡。エレノア嬢の所在確認を急がせろ」
特務隊員はすぐに踵を返し、地下通路を駆けていく。
その背を見送りながら、ルシアンは小さく舌打ちした。
もしエレノアが既に姿を消していたなら。
儀式は、もう始まっているのかもしれなかった。




