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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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地下の気配②

 地下水路へ沈黙が落ちる。


 ルシアンは、セレネの手にある髪飾りをじっと見つめた。


「似てる、じゃなく本人の物じゃないのか」


「断定はできません」


 セレネは落ち着いた声で答える。


「ただ、この装飾の留め方はローディア家お抱え職人の細工に近いです」


 白石の周囲へ入れられた細かな金装飾を指先でなぞる。


「同じ工房で作られた可能性は高いと思います」


 フェリクスが小さく息を吐いた。


「嫌な場所で嫌な物が出てくるねぇ……」


 地下の冷たい空気が、じわりと肌へまとわりつく。


 祭壇周辺には、誰かが最近まで使っていた痕跡が残っていた。


 燭台には新しい蝋が固まり切らずに残り、布箱の位置も不自然に動かされている。床へ散った泥はまだ乾ききっておらず、奥へ続く足跡も比較的新しい。


 そして床の端には、赤黒く変色した染み。


 ルシアンの表情が険しくなる。


「……ここ、完全に使われてるな」


「崩落して放置されていた場所には見えませんね」


 セレネが静かに周囲を見回す。


 地下特有の黴臭さの中に、微かに油と煙の匂いが混じっていた。


 少なくとも、最近まで誰かが灯りを使っていた。


 ルシアンはゆっくり立ち上がる。


「血痕、蝋、祭壇……儀式場としては十分すぎるな」


 祭壇の正面には、崩れかけた古い紋章が薄く刻まれていた。

 長い年月で削れ、半分以上判別できない。だが、水面のような円形模様だけは辛うじて残っている。


 セレネがそれを見つめ、小さく目を細めた。


「……水鏡」


「分かるのか?」


「古いノクシア関連資料で似た紋様を見ました。水面を“境界”として扱う思想があります」


 フェリクスが興味深そうに祭壇へ近づく。


「境界?」


「現世と神域、生者と死者、そういったものの境目です」


 静かな説明だった。

 だが地下の空気と妙に噛み合っていて、不気味さを増していた。


 ぽたり、とどこかで水滴が落ちる。反響した音が、やけに大きく聞こえた。


 ルシアンは周囲へ視線を巡らせる。


 地下水路は想像以上に広い。


 王城地下と繋がっているだけあり、人が数人隠れていても不思議ではない構造だった。


 細い横道も多い。


 もし犯人側が地理を把握しているなら、追跡は簡単ではないだろう。


「殿下」


 少し先を確認していた特務隊員が、ランタンを掲げたまま声を上げる。


「こちらに足跡があります」


 水の溜まった石畳へ、複数人分の泥跡が薄く残っていた。地下の湿気のおかげで、完全には消えていない。


 ルシアンがしゃがみ込み、床へ触れる。


「……新しいな」


「おそらく半日以内かと」


 隊員が答える。


 フェリクスも横から覗き込む。


「かなり人数いるね。少なくとも3人以上は動いてる」


 靴跡の大きさも揃っていなかった。


 大人の男と思われるもの。細い靴跡。泥を擦ったような不自然な痕。


 混ざり合っているせいで、逆に不気味だった。


 セレネは無言のまま足跡を見つめていたが、やがて小さく眉を寄せた。


「……合いません」


 ルシアンが顔を上げる。


「何?」


「こちらは奥へ向かった跡です」


 セレネが水際近くの泥を指差す。


「ですが、戻った跡が少ない」


 一瞬、空気が変わった。


 フェリクスの表情から笑みが消える。


ルシアンも改めて床へ視線を落とす。


 確かに、地下奥へ向かう足跡の方が多い。普通なら往復分が残るはずだ。だが、戻る側の足跡が極端に少ない。


「消した可能性は?」


 ルシアンが問う。


 セレネは静かに首を横へ振った。


「完全には消し切れていません。消したなら、もっと泥が乱れると思います」


 地下を流れる水音だけが響く。冷えた空気の奥に、微かな圧迫感があった。


 まるで暗闇の向こう側に、まだ誰かが息を潜めているような。


 ルシアンは腰の剣へ手を添える。


「……まだ中にいる可能性があるな」


「はい」


 セレネが頷いた、その時だった。


 遠く。


 本当に微かに。


 地下奥から、何かを引きずるような音が響いた。


 ギ……。


 湿った石床を擦るような、不快な音だった。


 全員の動きが止まる。


 特務隊員の一人が、反射的にランタンを強く握り直した。


 再び、音が響く。


 ギ……ギ……。


 地下水路の暗闇の奥で、何かが動いていた。

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