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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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偽りの痕跡

 翌朝から、王族特務隊は慌ただしく動いていた。


 地下水路の調査班、王城周辺の聞き込み班、ローディア家側との連絡役。それぞれへ人員が割り振られ、執務室の中も朝から落ち着かない空気が流れている。


 ルシアンは机へ広げられた地下構造図を見下ろし、小さく眉を寄せた。


「ローディア公爵は、まだ戻っていないのか」


「はい」


 答えたのはエドガーだった。


 銀縁の眼鏡へ朝の光が淡く反射する。


「昨夜から屋敷内も騒ぎになっているようです。ただ……」


「ただ?」


「ローディア小公爵が、地下水路の調査許可を出しました」


 ルシアンがわずかに目を細める。


「随分あっさりだな」


「父親の失踪もありますからね。何か隠していると疑われる方が面倒だと判断したのでしょう」


 エドガーは淡々と続ける。


「“父上が不在の今、隠し立てをするつもりはない”とのことです」


 ルシアンは小さく息を吐いた。


 少なくとも、ローディア小公爵本人は冷静らしい。


 あの屋敷で見た限りでも、公爵本人とは随分空気が違った。


「調査班はもう入ってるのか?」


「はい。ローディア家側の地下水路は想像以上に広く、旧礼拝堂側とも繋がっている可能性があります」


 その時、執務室の扉が静かに開いた。


 セレネだった。


 淡いラベンダー色のドレスは装飾こそ控えめだが、仕立ての良さが分かる。黒髪は後ろで緩くまとめられ、銀糸の刺繍が入った薄いショールが肩へ掛けられていた。


「おはようございます」


「ああ」


 ルシアンは短く返した。


 だが視線は一瞬、セレネへ向く。


 柔らかなラベンダー色が黒髪とよく合っていた。


 昨夜の姿を思い出しかけ、ルシアンは小さく咳払いをする。


「……殿下?」


「いや、何でもない」


 セレネは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


 代わりに、机上の地下構造図へ視線を落とす。


「ローディア家側の調査許可が下りたんですね」


「ああ。昼頃には何か出るかもしれん」


「出ない方がおかしい規模ですからね」


 フェリクスが後ろからひょっこり顔を出した。


 いつの間に来たのか、片手には大量の資料が抱えられている。


「兄上、朝から元気だな」


「人聞き悪いなぁ。寝不足だよ」


 そう言いながらも、フェリクスの目は妙に冴えていた。


「ただ、地下礼拝堂とローディア家水路が繋がってるなら、かなり面白いことになる」


「面白いで済ませるな」


「学者的には面白いんだよ」


 セレネが小さく息を吐く。


「その感覚、少し分かります」


「セレネまで言うのか……」


 ルシアンは額を押さえた。


 数時間後。


 昼を少し過ぎた頃だった。


 地下水路へ向かっていた特務隊の一人が、泥で汚れたまま執務室へ戻ってくる。


「ルシアン殿下」


「戻ったか。何か見つかったか?」


「はい」


 隊員は一礼し、それから布へ包まれた細長いものを机へ置いた。


 ルシアンが眉を寄せる。


「……何だこれは」


「地下水路で発見しました。壁際へ隠すように置かれていました」


 布を外した瞬間、執務室の空気がわずかに変わる。


 木製の棒だった。


 だが、ただの棒ではない。


 先端部分が靴底の形になっている。


 泥が乾きかけており、実際に使われていたことが分かった。


「……靴型か」


 ルシアンが低く呟く。


「おそらく、右足を引きずった跡を作るためのものかと」


 隊員が続ける。


「実際、水路内の痕跡と形状が一致しました」


 今まで何度も見つかっていた、“右足を引きずる人物”の痕跡。


 それが、人間の歩き方ではなく、意図的に作られたものだった。


 フェリクスが興味深そうに棒を覗き込む。


「じゃあ、最初から“足の悪い人物”がいるように見せてたわけだ」


「おそらく」


 隊員が頷いた。


 だが、セレネは棒ではなく、机へ置かれた記録紙を見つめていた。


「……違います」


 静かな声が落ちる。


 全員の視線がセレネへ向いた。


「地下水路で残っていた足跡ですが、左側だけ女性物だったんですよね?」


「あ、ああ」


 隊員が頷く。


「かなり細い靴跡でした」


 セレネは小さく眉を寄せる。


 何かを考え込むように、視線が記録と棒の間を行き来した。


「……おかしいんです」


「何がだ?」


 ルシアンが問う。


 セレネは棒の先端を静かに見つめる。


「この棒は、“右足を引きずる人物”を演出するためのものだと思います」


「そこまでは分かる」


「ですが、それだけなら右側だけ細工すればいいんです」


 フェリクスがわずかに目を細めた。


 セレネは続ける。


「それなのに、左側の足跡まで不自然に細い」


 エドガーが記録紙へ視線を落とす。


「細い足の女性も、いるのではありませんか」


 セレネは頷いた。


「もちろん、います。ですがこの足跡は、細いというより“歩くための幅”ではありません」


「歩くための幅?」


「はい」


 セレネは記録紙へ視線を落とした。


「王都の靴職人組合が扱う成人女性用の標準木型なら、この長さで横幅は8センチ前後あるはずです。でも、この跡は6センチ程度しかありません」


 フェリクスが眉を上げる。


「2センチも違うのか」


「はい。細い足の方はいますが、地下水路を歩き回れる形ではありません」


 セレネは棒の先端を見る。


「犯人は左側につま先の細い女性物の靴を履き、右側はこの棒で本来の足跡を消していたんだと思います」


 執務室が静まり返る。


 ルシアンは腕を組んだまま、ゆっくり目を細めた。


「つまり、“右足を引きずる女”を最初から作ってたわけか」


「はい」


 セレネが静かに頷く。


「黒髪の女。歌声。右足を引きずる足跡。“水鏡の魔女”として噂が広がりやすい要素ばかりです」


 フェリクスが小さく息を吐いた。


「ここまで徹底してると、逆に感心するね」


「感心するな」


 ルシアンが即座に返す。


 だが、その表情は険しかった。


 ここまで細かく噂を演出していたなら、犯人は最初から王都全体へ“水鏡の魔女”を広げるつもりだったことになる。


 ただの殺人ではない。


 何か別の目的がある。


 ノクシア信仰か。


 神降ろしか。


 それとも――。


 ルシアンは、机の上の靴型をじっと見つめた。

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