広がる影
閉鎖書庫を出た後も、重たい空気は誰も口にしなかった。
ローディア公爵邸の廊下を歩きながら、ルシアンは頭の中で情報を整理していく。
歌声。赤いリボン。黒髪。右足を引きずった跡。
全部、“水鏡の魔女”という怪異を成立させるための材料みたいだった。
しかも不自然なくらい丁寧に揃えられている。
誰かが意図的に作っている。
そう考える方が、もう自然だった。
「今回の件、人手が必要そうですね」
隣を歩くセレネが静かに言う。
ルシアンは小さく目を細めた。
王都へ広がる噂。王城内での証言。地下水路の先で見つかった礼拝堂。
犯人は思った以上に広く動いている。
「もっと効率的に調べないと、次が起きるかもしれません」
「……厄介だな」
ルシアンが低く呟く。
フェリクスが肩を竦めた。
「今さら?」
その時だった。
廊下の向こうから、数人の使用人達が歩いてくる。だが彼らはセレネの姿を見た瞬間、わずかに顔色を変えた。
「……黒髪」
「やっぱり……」
小さな囁き声。聞こえないと思っているのかもしれない。
ルシアンの眉間へ皺が寄る。
使用人達は慌てて頭を下げ、そのまま足早に去っていった。
セレネは何も言わない。だが最近、王都で同じ視線が増えている。
水鏡の魔女。黒髪。歌声。
噂だけが先に広がっていた。
「……くだらねぇ」
低く吐き捨てる。
エレノアが不安そうに視線を伏せた。
「申し訳ありません……ローディア家の夜会以降、王都でも噂が広がっていて……」
「エレノア嬢のせいじゃない」
ルシアンは即答した。
「誰かが意図的に流してる」
噂は自然発生じゃない。歌声も、赤いリボンも、足跡も、全部そうだ。
誰かが“水鏡の魔女”を作っている。
そして、その怪異へセレネを重ねようとしている。
その事実に、ルシアンは妙に腹が立った。
「殿下」
セレネが静かに呼ぶ。
「地下水路ですが」
「ああ」
「ローディア家側にも、旧水路へ繋がる通路がある可能性があります」
ルシアンの視線が動く。
エレノアが小さく頷いた。
「……あります」
「本当か」
「はい。現在は閉鎖されていますが、古い地下貯水路が残っています」
フェリクスが小さく笑った。
「やっぱり繋がってたか」
王城地下水路。噴水。王妃宮。
そしてローディア家。
全部、水路で繋がっている可能性がある。
ルシアンは腕を組み、小さく考え込んだ。
地下水路がまだ使えるなら、人目を避けた移動も可能になる。
歌声。水音。噴水周辺の痕跡。女官の証言。
全部、“怪異だから起きた”んじゃない。
地下構造を知っている人間なら、意図的に演出できる。
「地下を洗う必要があるな」
ルシアンが低く言う。
「礼拝堂周辺、水路、王城側の出入りも含めて確認した方が良さそうです」
セレネが頷く。
フェリクスも珍しく真面目な顔をしていた。
「さすがに範囲広いね。何隊か動かした方が良いかも」
「ああ。一度王城へ戻る」
そのまま一行はローディア公爵邸を後にした。
夕方の王都は薄く赤みを帯び始めていた。馬車が石畳を揺れるたび、窓の外の街並みが流れていく。
ルシアンは向かい側へ視線を向けた。
セレネは静かに外を見ている。
最近ずっと、セレネはああいう視線を向けられている。
黒髪だから。
ただそれだけで。
ルシアンは小さく舌打ちした。
その音にセレネが視線を上げる。
「殿下?」
「……別に」
言いながら、ルシアンは窓の外へ視線を戻した。
気に入らない。
怪異だの魔女だの、勝手な噂でセレネを見ている連中も。
それを意図的に広げている犯人も。
全部。
王城へ到着すると、外は既に薄暗くなり始めていた。
執務室へ入ると、見慣れた紙束と地図が机いっぱいへ広がっている。ランプの橙色の光が、散らばった資料の上へ落ちていた。
エドガーがすぐに立ち上がる。
「お帰りなさいませ、ルシアン殿下」
「何か進展は」
「資料整理中に、気になる点が見つかりました」
エドガーは数枚の資料を差し出した。
ルシアンは受け取りながら椅子へ腰を下ろす。セレネは自然に隣へ立ち、フェリクスは机へ軽く寄りかかった。
部屋の空気が少しだけ落ち着く。
紙をめくる音だけが静かに響いた。
「レイモンド・グラディス伯爵と、アルバート・レイン教師ですが」
エドガーは淡々と続ける。
「両名とも、古いノクシア信仰について調べていた形跡があります」
ルシアンの目が細くなる。
「ノクシア信仰……」
「はい。禁書指定されている古い異端信仰です」
エドガーは別の資料を机へ置いた。
かなり古い記録らしい。紙の端が茶色く変色している。
「水底、夜、黒髪、生贄――そういった記述が多く見られます」
フェリクスが資料を覗き込み、小さく眉を上げた。
「……随分趣味悪いね」
「さらに、ローディア公爵家とも接点が確認されました」
その言葉に、部屋の空気が少し変わる。
ルシアンは資料から顔を上げた。
「接点?」
「グラディス伯爵とアルバート教師、どちらもローディア家の蔵書管理記録へ名前が残っています」
セレネが静かに口を開く。
「閉鎖書庫ですね」
「その可能性が高いかと」
エドガーは淡々と頷いた。
ルシアンは机上の資料へ視線を落とす。
ノクシア信仰。
地下礼拝堂。
ローディア家。
全部が少しずつ繋がり始めていた。
そして犯人は、その噂を利用している。




