ノクシア信仰
執務室へ重たい沈黙が落ちていた。
ランプの火が小さく揺れ、机いっぱいに広げられた資料の影を揺らしている。古紙とインクの匂いが混ざり、部屋の空気は少し乾いていた。
ルシアンは椅子へ深く座ったまま、エドガーが持ち込んだ資料へ視線を落とす。
ノクシア信仰。
地下礼拝堂。
ローディア家。
点だったものが、少しずつ線になり始めていた。
「禁書指定ってことは、昔から危険視されてたのか」
ルシアンが低く問う。
エドガーは静かに頷いた。
「はい。現在の主神教成立以前に存在した異端信仰の一つです」
フェリクスが古い資料をめくりながら口を挟む。
「王国初期は地方ごとに信仰もバラバラだったからね。主神教が統一していく過程で、多くは消えた」
「その生き残りがノクシアか」
「正確には、“消えきらなかった残滓”かな」
フェリクスは薄く笑った。
ルシアンは机上の資料へ視線を落とす。
そこには古い文字で、ノクシアについての記述が並んでいた。
――水底を司る夜の女神。
――黒き髪は器。
――血を捧げよ。
読み進めるほど、不快感が増していく。
「趣味悪ぃな……」
ルシアンが呟くと、フェリクスが肩を竦めた。
「昔の信仰なんてそんなものだよ。生贄文化も珍しくない」
「生贄、か」
ルシアンは小さく眉を寄せる。
そこで、静かだったセレネが顔を上げた。
「異国の宗教では、一柱だけではなく、複数の神を信仰する文化もあるそうです」
ルシアンが視線を向ける。
セレネは少し考えるように続けた。
「海、夜、太陽、死……役割ごとに神格が分かれている、と」
「へぇ」
フェリクスが面白そうに目を細める。
「詳しいね」
「昔、本で読んだことがあります」
セレネは静かに答えた。
「その中には、“神を人へ降ろす”という思想も存在していたそうです」
部屋の空気がわずかに静まる。
ランプの火が小さく揺れた。
ルシアンは無意識に机上の資料を見る。
黒髪。
生贄。
器。
嫌な単語ばかり並んでいた。
「……つまり、このノクシア信仰も同じ可能性があるってことか」
セレネは静かに頷く。
「完全には断定できません。ですが、“器”という表現は気になります」
フェリクスも資料へ目を落とした。
「確かにね。ただの信仰にしては妙に具体的だ」
エドガーが別資料を差し出す。
「こちらはグラディス伯爵の書庫から押収された記録です」
ルシアンは受け取り、ページをめくる。
そこには複数の走り書きが残されていた。
地下水路。
礼拝堂。
儀式。
そして、“血”。
ルシアンの目が細くなる。
「……失血事件と繋がるな」
「はい」
エドガーは淡々と答えた。
「さらに、アルバート教師の研究記録にも同様の記述が確認されています」
「どっちもノクシア信仰を調べてた、か」
フェリクスが小さく息を吐く。
「偶然にしては出来すぎてる」
静かな沈黙が落ちる。
ルシアンは椅子へ深く背を預けた。
頭の中で情報が繋がり始めている。
地下礼拝堂。
ノクシア信仰。
失血死。
そして、“黒髪の器”。
怪異じゃない。
もっと現実的で、もっと悪質だ。
誰かが、この信仰を利用している。
その時だった。
セレネが資料の一文へ視線を止める。
ほんのわずかに、眉が寄った。
ルシアンはその変化を見逃さなかった。
「何か気づいたか」
セレネは静かにページを見つめたまま答える。
「……この記述です」
細い指先が、古い文字をなぞる。
『器へ至るには、清き血を満たすべし』
ルシアンが眉を寄せた。
「清き血?」
「恐らく、“新鮮な血液”を指している可能性があります」
セレネの声は静かだった。
だが、その瞬間。
グラディス伯爵とアルバート教師の遺体が、ルシアンの脳裏へ蘇る。
異常な失血。
青白い肌。
床へ広がっていた血。
全部が、急に現実味を帯び始めていた。




