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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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ノクシア信仰

 執務室へ重たい沈黙が落ちていた。


 ランプの火が小さく揺れ、机いっぱいに広げられた資料の影を揺らしている。古紙とインクの匂いが混ざり、部屋の空気は少し乾いていた。


 ルシアンは椅子へ深く座ったまま、エドガーが持ち込んだ資料へ視線を落とす。


 ノクシア信仰。


 地下礼拝堂。


 ローディア家。


 点だったものが、少しずつ線になり始めていた。


「禁書指定ってことは、昔から危険視されてたのか」


 ルシアンが低く問う。


 エドガーは静かに頷いた。


「はい。現在の主神教成立以前に存在した異端信仰の一つです」


 フェリクスが古い資料をめくりながら口を挟む。


「王国初期は地方ごとに信仰もバラバラだったからね。主神教が統一していく過程で、多くは消えた」


「その生き残りがノクシアか」


「正確には、“消えきらなかった残滓”かな」


 フェリクスは薄く笑った。


 ルシアンは机上の資料へ視線を落とす。


 そこには古い文字で、ノクシアについての記述が並んでいた。


 ――水底を司る夜の女神。


 ――黒き髪は器。


 ――血を捧げよ。


 読み進めるほど、不快感が増していく。


「趣味悪ぃな……」


 ルシアンが呟くと、フェリクスが肩を竦めた。


「昔の信仰なんてそんなものだよ。生贄文化も珍しくない」


「生贄、か」


 ルシアンは小さく眉を寄せる。


 そこで、静かだったセレネが顔を上げた。


「異国の宗教では、一柱だけではなく、複数の神を信仰する文化もあるそうです」


 ルシアンが視線を向ける。


 セレネは少し考えるように続けた。


「海、夜、太陽、死……役割ごとに神格が分かれている、と」


「へぇ」


 フェリクスが面白そうに目を細める。


「詳しいね」


「昔、本で読んだことがあります」


 セレネは静かに答えた。


「その中には、“神を人へ降ろす”という思想も存在していたそうです」


 部屋の空気がわずかに静まる。


 ランプの火が小さく揺れた。


 ルシアンは無意識に机上の資料を見る。


 黒髪。


 生贄。


 器。


 嫌な単語ばかり並んでいた。


「……つまり、このノクシア信仰も同じ可能性があるってことか」


 セレネは静かに頷く。


「完全には断定できません。ですが、“器”という表現は気になります」


 フェリクスも資料へ目を落とした。


「確かにね。ただの信仰にしては妙に具体的だ」


 エドガーが別資料を差し出す。


「こちらはグラディス伯爵の書庫から押収された記録です」


 ルシアンは受け取り、ページをめくる。


 そこには複数の走り書きが残されていた。


 地下水路。


 礼拝堂。


 儀式。


 そして、“血”。


 ルシアンの目が細くなる。


「……失血事件と繋がるな」


「はい」


 エドガーは淡々と答えた。


「さらに、アルバート教師の研究記録にも同様の記述が確認されています」


「どっちもノクシア信仰を調べてた、か」


 フェリクスが小さく息を吐く。


「偶然にしては出来すぎてる」


 静かな沈黙が落ちる。


 ルシアンは椅子へ深く背を預けた。


 頭の中で情報が繋がり始めている。


 地下礼拝堂。


 ノクシア信仰。


 失血死。


 そして、“黒髪の器”。


 怪異じゃない。


 もっと現実的で、もっと悪質だ。


 誰かが、この信仰を利用している。


 その時だった。


 セレネが資料の一文へ視線を止める。


 ほんのわずかに、眉が寄った。


 ルシアンはその変化を見逃さなかった。


「何か気づいたか」


 セレネは静かにページを見つめたまま答える。


「……この記述です」


 細い指先が、古い文字をなぞる。


『器へ至るには、清き血を満たすべし』


 ルシアンが眉を寄せた。


「清き血?」


「恐らく、“新鮮な血液”を指している可能性があります」


 セレネの声は静かだった。


 だが、その瞬間。


 グラディス伯爵とアルバート教師の遺体が、ルシアンの脳裏へ蘇る。


 異常な失血。


 青白い肌。


 床へ広がっていた血。


 全部が、急に現実味を帯び始めていた。

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