閉ざされた書庫①
ローディア公爵邸の廊下は、どこまでも静かだった。白い壁、白い花、窓から差し込む淡い光。整えられているはずなのに妙に息苦しい。エレノアが杖をつきながら先を歩き、その隣にはセレネがいる。ルシアンは自然と二人の少し後ろへ位置を取った。
「セレネ様、こちら少し段差が――」
言い終わる前に、エレノアの足元がわずかに揺れた。セレネがすぐに手を伸ばす。
「エレノア嬢、大丈夫ですか?」
「え……」
エレノアが目を瞬く。セレネは自然な動作でエレノアの腕を支えていた。
「無理をしないでください。書庫なら私達だけでも」
「い、いえ……っ。だ、大丈夫です……!」
だが全く大丈夫そうではない。頬を赤くしたエレノアは、夢でも見ているみたいな顔でセレネを見つめた。
「セレネ様って、本当にお優しいんですね……」
横でフェリクスがとうとう吹き出した。
「兄上」
「ごめんごめん。でも、これは無理」
肩を震わせる兄を見て、ルシアンは小さく眉を寄せた。何がそんなに面白いのか分からない。エレノアは慌てて姿勢を正し、咳払いをひとつした。
「し、失礼いたしました。こちらです」
案内されたのは廊下の最奥だった。他の部屋と違い装飾が少なく、代わりに古い鍵跡がいくつも残っている。
「閉鎖書庫です。古い宗教記録や禁書指定を受けた写本の一部が保管されています」
「学院図書塔へ移されなかったものか」
「はい。ローディア家側で管理していたものです」
エレノアが鍵を差し込む。重い音と共に扉が開き、古い紙と埃の匂いが流れ出た。
薄暗い室内には本棚が壁一面へ並び、奥の方は影になっている。ルシアンは無意識に周囲を見渡した。人の気配はない。だが、完全に放置されていた空気でもなかった。
「……最近まで誰か入ってるな」
エレノアが目を瞬く。
「分かるのですか?」
「床の埃が不自然だ」
一部だけ薄く乱れている。最近歩いた跡だった。フェリクスも気づいたらしく、小さく笑った。
「さすが特務隊隊長」
その間にも、セレネは既に本棚へ視線を移していた。指先で背表紙をなぞりながら分類番号を確認している。
「……水辺信仰は北部地方側へまとめられていますね」
「分かるんですか?」
エレノアが感心したように近づく。
「この記号、学院図書塔の分類と似ています」
セレネは迷いなく棚の一角から一冊を抜き取った。古びた革表紙。擦れた金文字。
「――水鏡の魔女」
ルシアンの目が細くなる。セレネがページを開くと、紙は変色し端が擦り切れていた。だが中の一部だけ妙に新しい。
「……紙質が違うな」
「後から差し替えられています」
フェリクスが横から覗き込む。
「本当だ。しかもここだけインクが新しい」
ページには、水辺で歌う黒髪の女の挿絵が描かれていた。その首元には赤いリボン。
「赤いリボン……」
ローディア家の夜会以降、王都で流行り始めた装飾だ。若い令嬢達が競うようにつけていた。
「……あの時、落ちていた髪の束も、赤いリボンでくくられていましたね」
セレネが低く言う。
染められた黒髪の束。赤いリボン。あれはただ落ちていたものではない。誰かが意図的に置いたものだ。
「これ、元の記録にはなかったんじゃないかな」
フェリクスがページを軽く叩く。
「水鏡の魔女伝承って、もっと古いはずだよ」
ルシアンの眉が寄る。
「……王家禁書庫で確認した最古は、523年頃だったな」
「うん。でも、これは――」
セレネが静かに読み上げる。
「アルヴェリア暦402年」
空気が変わった。
ルシアンは無意識にページを見つめる。100年以上古い。今はアルヴェリア暦726年。三百年以上前の記録ということになる。
「王家側には残っていなかった年代ですね」
セレネが言う。
「消された可能性があるな」
ルシアンが低く呟くと、フェリクスは否定しなかった。
セレネはさらにページをめくる。古い挿絵。水辺に立つ長髪の女。細い指。笑っているようにも見える顔。妙に嫌な絵だった。
「……やはり、初期記録には歌の記述がありません」
セレネが静かに言う。
ルシアンは小さく頷いた。
王家禁書庫でも確認した内容だ。“歌う魔女”という表現が増え始めるのは、アルヴェリア暦643年頃から。それ以前の記録では、水辺と黒髪、失血の記述ばかりが残っていた。
「後から混ぜられた可能性が高いね」
フェリクスが本を閉じる。
静かな沈黙が落ちる。
誰かが意図的に、“歌う魔女”を作った。
その時だった。
セレネがふと別の冊子へ手を伸ばす。かなり古い記録だった。ページの端が茶色く変色している。
「セレネ?」
ルシアンが声をかける。
セレネは答えず、ページを開いた。そして、ほんのわずかに眉が動く。
ルシアンはその変化を見逃さなかった。
「何かあったか」
セレネは静かにページを見つめたまま言う。
「……過去にも、似た事件が起きています」
ルシアンとフェリクスが同時に視線を向けた。




