ローディア公爵家②
「……お会いしたかったのです、セレネ様」
その声は、水面へ落ちる雫みたいに静かだった。
ルシアンは小さく目を細める。初対面の相手へ向ける声にしては、あまりに深い。まるで長い間、胸の奥で大切にしていた名前を、ようやく口にしたみたいだった。
「私に、ですか?」
セレネが少し戸惑ったように尋ねる。その瞬間、エレノアの瞳がぱっと明るくなった。
「はい……!」
思わず熱が零れたような声だった。
「ずっと、お会いしてみたかったんです。学院でのお話も少しだけ聞いていましたし、その……」
エレノアはそこで言葉を詰まらせる。頬が薄く赤い。細い指が落ち着かなさそうに杖を握り直した。
「とても、お綺麗な方だと……」
セレネが少し困ったように瞬きをする。
「ありがとうございます」
「い、いえ。こちらこそありがとうございます」
何に対して礼を言っているのか分からない。フェリクスが堪えきれないように小さく笑った。
ルシアンは黙ってエレノアを見る。先ほどまでの儚げな雰囲気が、セレネを前にした途端に崩れている。分かりやすすぎた。
「本当は……」
エレノアは小さく息を吸った。
「お姉さまとお呼びしたいくらいで……」
部屋の空気が止まった。
セレネが固まる。フェリクスが吹き出しそうになるのを堪えるように口元を押さえた。ルシアンは無言でエレノアを見る。
エレノアは、自分が口にした言葉に遅れて気づいたらしい。みるみる顔を赤くした。
「あ、いえ、その……申し訳ありません。初対面でこんなことを」
「いえ……驚きましたが」
セレネが少しだけ柔らかく笑う。
「嫌ではありません」
エレノアの瞳が、またぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「はい」
「では、いつか本当に――」
そこまで言って、エレノアははっと口を閉じた。
ルシアンは眉を寄せる。この令嬢は、思っていたよりずっと感情が顔へ出る。少なくとも、セレネに対してだけは。
エレノアはようやくルシアンへ視線を向け、姿勢を正した。
「失礼いたしました、ルシアン殿下。フェリクス殿下も、ようこそお越しくださいました」
今度の声は落ち着いていた。先ほどまでの熱は綺麗に消えている。
「足の具合は?」
フェリクスが穏やかに尋ねる。
「だいぶ良くなりました。まだ長く歩くのは難しいのですが」
エレノアは儚げに微笑んだ。さっきまでセレネへ向けていた表情とは、どこか違う。
ルシアンは小さく目を細める。
「ローディア公爵は?」
「父は体調を崩しております。本日はお会いできません」
「いつからだ」
「ここ数日です」
エレノアの指先が、膝の上でわずかに動いた。ルシアンはそれを見逃さなかった。
学院事件の後から、公爵は表へ出ていない。偶然とは思えなかった。
「今日は、私がお話ししたくてお呼びしました」
エレノアは再びセレネを見る。その瞬間だけ、声が少し柔らかくなる。
「セレネ様に、どうしてもお伝えしたいことがあって」
「私に?」
「はい」
返事だけは迷いがなかった。ルシアンは無意識にセレネの近くへ立つ。エレノアの好意が本物だとしても、安全とは限らない。
「学院で起きたことについてです」
部屋の空気が変わった。窓の外では、水路の音だけが細く続いている。
ルシアンはエレノアを見据えた。
「何を知っている」
エレノアは一度だけ目を伏せた。
「アルバート先生が、以前父を訪ねてきたことがあります」
ルシアンの目が鋭くなる。
「アルバート教師が?」
「はい。私は詳しい内容までは聞いていません。ただ、一つだけ聞こえた言葉がありました」
「一つ?」
フェリクスが静かに促す。
エレノアの視線が、またセレネの黒髪へ向く。
「黒き髪です」
空気が止まった。地下礼拝堂。削られた壁画。顔を壊された女神像。黒き髪は、ノクシアの器。
あの言葉が、再び頭の奥へ浮かぶ。
ルシアンは無意識に、セレネの前へ半歩立った。エレノアはその動きに気づいたらしく、少しだけ目を伏せる。
「父は、それは王家が消したはずの名だと言っていました」
「……ノクシアか」
フェリクスが低く呟く。エレノアは答えない。その沈黙だけで十分だった。
「アルバートは何と答えた」
ルシアンが問う。エレノアは小さく息を吸った。
「消されたものほど、残るものです、と」
部屋が静まり返る。
王城は残すべきものを管理する場所。学院は捨てきれなかったものまで抱えている。フェリクスの言葉が、ルシアンの中で重なった。
「ローディア家には、ノクシアに関する記録があるのか」
エレノアの瞳がわずかに揺れた。
「……古い蔵書の中に、名だけは残っています」
「見せてもらう」
ルシアンが言うと、エレノアは視線を下げた。
「本来なら、外部の方へお見せできるものではありません」
「本来なら、アルバート教師がここへ出入りしていたことも問題だ」
エレノアは言葉を失う。フェリクスが柔らかく笑った。
「ルシアン、少し怖いよ」
「怖がらせるつもりで言っている」
「だろうね」
フェリクスは肩を竦めた。
エレノアは再びセレネを見る。
「……セレネ様が望まれるなら、ご案内します」
ルシアンは眉を寄せた。まるで決定権がセレネにあるみたいな言い方だった。
「私が、ですか?」
「はい」
エレノアは小さく頷く。
「私は、セレネ様に知っていただきたいのです」
その声だけが、また少し熱を帯びる。
「父が何を恐れていたのか。アルバート先生が何を探していたのか。そして……なぜ、父があなたのことを口にしたのか」
ルシアンの目が鋭くなる。
「ローディア公爵が、セレネを?」
「はい」
「何と言った」
エレノアは答えにくそうに睫毛を伏せた。
「黒髪の娘には近づくな、と」
ルシアンの周囲の空気が冷えた。セレネが小さく息を呑む。
「それから?」
「けれど、決して目を離すな、とも」
「矛盾しているな」
フェリクスが静かに言う。エレノアは頷いた。
「私にもそう思えました。だから知りたかったのです。父が恐れている方が、どんな方なのか」
そう言って、またセレネを見る。その目は怯えていない。むしろ、眩しいものを見るみたいだった。
「けれど実際にお会いしたら……」
エレノアの頬がまた少し赤くなる。
「とても、お優しそうで。凛としていて。綺麗で……」
言葉が小さくなっていく。
フェリクスがとうとう笑った。
ルシアンは笑わなかった。なぜか少し面白くない。理由は分からないが、面白くなかった。




