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月桂宮の水音③

だが言った直後、フェリクス自身が少し困ったように笑う。


「……とはいえ、僕も実際に見たことはないんだけどね」


「適当に歩くなよ」


「さすがに怒られるから大丈夫」


ルシアンは小さく息を吐き、近くに控えていた女官長へ視線を向けた。


「古い通路に繋がる場所、分かるか?」


女官長は一瞬迷ったような顔をしたが、やがて静かに頷いた。


「月桂宮の裏手に、現在は使われていない保管区域がございます。その奥に、昔の使用人通路が残っていると聞いたことがあります」


「案内できるか?」


「……はい」


女官長は壁際の灯りを手に取った。小さな炎が揺れ、薄暗かった回廊へ淡い光が広がる。


ルシアンたちはリリアーナの私室を出た。


月桂宮の表側は、王太子妃の居住空間らしく柔らかな色彩で統一されている。厚い絨毯。磨かれた白い壁。金細工の装飾。だが奥へ進むにつれて、景色は少しずつ変わっていった。装飾が減り、灯りも少なくなる。


やがて女官長が案内したのは、使用人用の細い通路だった。普段ルシアンたちが通る回廊とはまるで違う。横幅は狭く、大人二人が並ぶには窮屈なほどしかない。王族や貴族の視界へ入らないよう、使用人たちが裏側を移動するための通路なのだろう。だからこそ装飾も最低限だった。


冷たい石壁がむき出しのまま続き、小さな夜灯だけが等間隔に掛けられている。ぼんやりとした橙色の光が、細長い影を石床へ落としていた。


どこか息苦しい。昼間ならまだ違ったのかもしれない。だが深夜の静寂の中では、この狭さが妙な圧迫感を生んでいた。


女官長の靴音だけが、コツ、コツ、と静かに響く。普通の令嬢なら、かなり怖がるだろう。実際、先ほど月桂宮にいた侍女たちは、水音の話だけで顔色を失っていた。


ルシアンは何となく後ろを振り返る。


だがセレネは、いつも通り静かな顔でついて来ていた。怯えている様子はない。海色の瞳で、淡々と周囲を観察している。


暗闇に慣れている、というより、怖がること自体を忘れているような落ち着き方だった。


相変わらず肝が据わってる。


学院時代もそうだった。試験だろうが実技だろうが、こいつが取り乱したところをほとんど見た記憶がない。


さらに奥へ進むにつれ、人の気配が完全に消えていく。空気も変わった。微かに埃っぽい。長い間閉ざされた空間特有の、古い匂いが漂っている。壁際には木箱や、白布を被せられた古い家具が並んでいた。


どうやらこの辺りは、今ではほとんど使われていない保管区域らしい。


女官長が歩みを止める。


「この先です」


灯りが向けられた先。そこには、壁と同じ色で塗られた古い木扉があった。一見すると、ただの物置にしか見えない。だが近づくと、取っ手には薄く錆が浮いている。長い間、まともに開閉されていなかったのだろう。


ルシアンは扉へ手を掛ける。重い。押し込むと、ギィ……と鈍い音を立てながらゆっくり開いた。


その瞬間だった。


ひやり、とした空気が下から流れ込んでくる。思わずルシアンの眉が寄る。


冷たい。それに、湿っている。


地下特有の空気だった。


灯りを向けると、石造りの狭い階段が暗闇の奥へ続いている。階段の縁は黒ずみ、ところどころ水染みが浮いていた。下から、微かに水の匂いがする。


ルシアンは暗い階段の奥を見下ろした。


「……地下水路に繋がってそうだな」


女官長が不安そうに口を開く。


「殿下、本当にお入りになるのですか……?」


灯りを持つ手が、僅かに震えていた。無理もない。今の王城で、この地下区域へ近づく人間などほとんどいないのだろう。まして、歌声や水鏡の魔女の噂が広がる中だ。


ルシアンは女官長へ視線を向ける。


「ここから先は俺たちだけで行く。女官たちは月桂宮へ戻れ」


「しかし……」


「大丈夫だ。危険そうならすぐ戻る」


ルシアンが静かに言うと、女官長は迷った末、小さく頭を下げた。そして手にしていた灯りを差し出す。


「……どうか、お気をつけください」


ルシアンは灯りを受け取る。真鍮製の小さな持ち灯りだった。炎が揺れ、暗い石壁へ影を伸ばす。


女官長は深く一礼すると、そのまま静かに後ろへ下がった。足音が遠ざかっていく。


やがて細い使用人通路から、人の気配が完全に消えた。残ったのは、ルシアンたち三人だけ。


薄暗い地下入口の前で、沈黙が落ちる。


灯りの火だけが、ゆらゆらと揺れていた。


ルシアンはゆっくり息を吐く。


「行こう」


そう言って、先頭で石階段へ足をかける。ギシ、と湿った音が響いた。


階段は思った以上に狭い。片側の壁へ肩が触れそうになる。石壁は冷たく、湿気を含んでいた。下へ降りるにつれて空気がさらに重くなる。


湿った匂い。古い水路特有の、生ぬるい水の臭気。


灯りを下へ向けると、階段の端には黒ずんだ水跡が残っていた。最近付いたものではない。長い年月をかけて染み込んだ跡だ。


足音が反響する。コツ、コツ、と石段を踏む音だけが、暗闇の奥へ吸い込まれていった。


後ろから、フェリクスの静かな声が聞こえる。


「思ったより深いね」


「昔の水路だからな」


ルシアンは前を見たまま答える。王城は増築を繰り返している。古い設備が地下へ埋もれていても不思議ではない。


だが、降りれば降りるほど、妙な圧迫感が強くなっていく。


まるで王城の裏側へ入り込んでいくようだった。


ふと、ルシアンは後ろを振り返る。


セレネは静かな顔で階段を降りていた。暗闇にも動じていない。灯りに照らされた黒髪が、地下の空気の中でやけに静かに見えた。

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