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地下水路

石階段は思った以上に長かった。


降りるほど空気が重くなる。湿った匂いが肺へまとわりつき、ルシアンの手にした灯りの炎も、不安定に揺れていた。


コツ、コツ、と足音だけが暗闇へ響く。狭い石壁にぶつかった音が、少し遅れて返ってくる。まるで、後ろから別の誰かが歩いているみたいだった。


ルシアンは小さく眉を寄せる。


「……気味悪いな」


「音が反響してるんだよ」


後ろからフェリクスが静かに答えた。


「地下水路特有の構造だね。壁が石造りだから余計響く」


その時だった。フェリクスが思い出したように口を開く。


「そういえば、新しい補佐官君は?」


「ああ、エドガーなら執務室へ戻した」


ルシアンは前を向いたまま答える。


「事件関連の資料整理を頼んである」


「なるほど。さすがに地下探索までは連れて来なかったか」


「剣も使えねぇしな」


エドガーは頭は回る。だが、こういう場所向きではない。むしろ今頃、山積みになった記録書類と格闘している方があいつらしかった。


さらに数段降りたところで、ふっと空間が開けた。階段が終わる。


ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が暗闇を押し退け、地下空間をぼんやり照らし出す。


そこに広がっていたのは、古い地下水路だった。


天井は低い。背の高いルシアンだと、少し圧迫感を覚えるほどには狭い。両脇の石壁には、長い年月をかけて染み込んだ黒い水跡が浮かび、床の端には浅く水が溜まっている。


灯りがなければ、数歩先すら見えない暗さだった。炎が揺れるたび、石壁の影が歪む。まるで誰かが動いたように見えて、一瞬、視線がそちらへ引っ張られた。


どこかで、水が流れていた。


ちゃぷん。


遠くで小さな水音が響く。だが、その音は地下通路の反響によって妙に広がり、位置が分からなくなる。前から聞こえたと思えば、次は後ろから聞こえた気がする。


ルシアンは小さく舌打ちした。


「方向が分かりづれぇ……」


「だから歌声に聞こえるんだろうね」


フェリクスが周囲を見回しながら言う。


「人の声って、反響すると妙に伸びるから」


ルシアンはゆっくり周囲を観察した。地下水路と言っても、ただの下水ではない。古い石造りの通路が幾つも枝分かれしている。王城建設初期の設備なのだろう。


アルヴェリア暦726年。


王城は何度も増築されている。古い設備が地下へ埋もれていても不思議ではなかった。


その時だった。灯りの端で、何か黒いものが床へ張り付いているのが見えた。


ルシアンは足を止める。


「……何だ?」


灯りを近づける。


黒い布切れだった。水を吸い、重たく床へ貼り付いている。


フェリクスがしゃがみ込む。ルシアンはさらに灯りを下げ、布を照らした。暗闇の中では、炎を近づけなければ細かい状態までは見えない。


フェリクスは濡れた布を指先で軽く摘み上げた。


「最近のものだね」


「分かるのか?」


「古布ならもっと腐食してる。これはまだ繊維が残ってる」


布から、水滴がぽたり、と床へ落ちる。


その時だった。セレネが小さく声を上げる。


「殿下」


ルシアンが振り返る。セレネは壁際の床を見ていた。だが暗くて、ルシアンの位置からではよく見えない。


ルシアンは灯りを持ったまま近づき、炎を床へ向けた。その瞬間、薄く積もった泥の上へ、不自然な跡が浮かび上がる。


一定間隔で、泥だけが削れていた。


まるで硬いものを突いたような丸い跡だった。


ルシアンはしゃがみ込む。


「……何だこれ」


「おそらく杖です」


セレネが静かに答える。


「湿った泥の上へ、先端が触れた跡かと」


ルシアンは灯りを近づけたまま、跡を目で追う。確かに規則的だった。人の足跡とは違う。細い棒状のものを突いたような痕跡。しかも比較的新しい。


完全に乾いた泥なら、もっと埃が積もっているはずだった。


誰かが最近ここを歩いた。


それだけは間違いない。


その時、遠くから微かな歌声が聞こえた。


ルシアンの背筋が強張る。


女の声。細く、掠れるような歌声。だが不思議なことに、どこから聞こえているのか分からない。前か。後ろか。右か左か。地下通路全体へ声が滲んでいるようだった。


ルシアンは無意識に周囲を見回す。だが灯りの届く範囲には、誰もいない。暗闇だけが続いている。


侍女たちが怯えた理由を、ルシアンは初めて理解した。


これは確かに、不気味だ。


人間の声なのに、人間らしく聞こえない。


その時だった。セレネが足を止める。


「待ってください」


「どうした?」


「……今の歌声、一定方向から反響しています」


セレネは静かに周囲へ視線を巡らせる。海色の瞳が、暗闇の奥を見据えていた。


「おそらく、水路の空洞部分があります」


「空洞?」


「地下礼拝堂のような空間かもしれません。音が一度広がってから反射しています」


フェリクスが感心したように笑った。


「耳いいね」


「学院時代、音響構造の講義がありました」


「そんな専門講義まで取ってたのか」


ルシアンが少し呆れたように言うと、セレネは平然としていた。


「建築学科では基礎です」


「お前、ほんと変な知識多いな」


軽口を返しながらも、ルシアンは周囲へ意識を張っていた。地下の空気が変わっている。さっきより湿度が高い。そして微かに、香の匂いが混じっていた。


水路には似合わない匂いだった。


ルシアンは眉を寄せる。


「……香?」


「気づいた?」


フェリクスも小さく目を細める。


「誰かが最近ここにいた証拠かもしれないね」


その直後だった。


通路の先に、ぼんやりとした灯りが見えた。


三人の動きが止まる。


地下水路の奥。暗闇の向こうに、淡い橙色の光が揺れていた。


誰かいる。


ルシアンは無意識にセレネの前へ立つ。灯りを少し下げ、気配を殺しながらゆっくり進んだ。足音が響かないよう慎重に歩く。水滴の落ちる音だけが、静かな地下空間へ反響していた。


やがて通路が開ける。


そこにあったのは、小さな石造りの空間だった。


地下礼拝堂。


そう呼ぶのが一番近い。古い祭壇。崩れかけた石像。そして壁一面に刻まれた、見慣れない紋章。


ルシアンは灯りを少し上げる。揺れる炎に照らされ、その紋章がゆっくり浮かび上がった。


その瞬間、セレネが小さく息を呑む。


「……ノクシア」

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