月桂宮の水音②
「歌声もか?」
ルシアンが静かに尋ねる。リリアーナは小さく頷いた。
「ええ。でも私は直接聞いていないんです」
穏やかな声だった。だが、部屋の空気は張り詰めている。月桂宮に控えていた侍女たちは、皆どこか青ざめていた。
夜の月桂宮は静かだ。昼間のような人の出入りもない。灯りも最低限しか落とされておらず、広い室内には薄い橙色の明かりだけが揺れている。
だからこそ、小さな音でも異様に響く。まして今は、水鏡の魔女の噂が王城中へ広がっている最中だ。
リリアーナはそっと腹部へ手を添えながら、小さく息を吐いた。
「侍女たちが、女性の歌声のようだったと怯えてしまって……」
ルシアンは窓の方を見る。厚いカーテンの隙間から、月明かりが細く入り込んでいた。
「殿下は聞いてないんだな?」
「ええ。ただ……昨夜も、似たような音はありました」
「昨夜?」
「水が流れるような音です。窓の下から聞こえてきて……最初は雨かと思ったのですが、今夜も同じ音がしたと聞いて」
フェリクスが静かに窓辺へ近づく。ルシアンもその後ろへ立った。
窓の外には、中庭が広がっている。月明かりに照らされた噴水は静まり返っていた。この時間に水音が響くこと自体がおかしい。
フェリクスは窓の下を見下ろした。
「……思ったより近いな」
フェリクスは窓枠へ軽く手を置く。
「月桂宮って、かなり中庭寄りに造られてるんだ。真下を旧水路が通っていても不思議じゃない距離だね」
ルシアンも改めて外を見る。確かに近い。昼間なら、噴水の水しぶきが見える程度の距離しかなかった。
その時だった。フェリクスの視線が、ふと床で止まる。
「……これ」
ルシアンも視線を落とす。
窓際の石床に、小さな水滴が点々と残っていた。月明かりに照らされ、僅かに光っている。
ルシアンは眉を寄せた。
「雨じゃないな」
今夜は晴れている。窓も閉まっていた。フェリクスがしゃがみ込み、指先で床へ触れる。
「……まだ濡れてる」
透明な水が指先へ付着する。乾ききっていない。つまり、ごく最近付いた水だ。
フェリクスは顔を上げ、リリアーナへ視線を向けた。
「この辺り、以前から湿っていましたか?」
リリアーナは小さく首を振る。
「いいえ。少なくとも私は見たことがありません」
女官長も不安そうに口を開いた。
「月桂宮は毎日清掃しております。このような水跡は……初めてです」
つまり、急に現れた。フェリクスは再び窓の下を見る。
「地下水路が存在するだけなら、水が染み出すこと自体は不自然じゃない。でも、今まで何もなかった場所で急に水が出始めたとなると話は別だ」
「誰かが最近、水を流した可能性があるってことか?」
ルシアンが低く尋ねる。フェリクスは静かに頷いた。
「あるいは地下で何かが動いてる」
その言葉に、部屋の空気がさらに冷える。侍女の一人が小さく肩を震わせた。
ルシアンは小さく息を吐く。
恐怖は伝染する。だからこそ、早く原因を掴まなければならない。
その時だった。セレネが静かに窓辺へ近づいた。
海色の瞳が、中庭の地面を見下ろしている。ただ景色を見ているわけじゃない。何か位置を確認しているようだった。
「……地下です」
静かな声だった。
ルシアンが視線を向ける。セレネは窓の下を見たまま続けた。
「図書塔で見た構造図通りなら、この真下を旧水路が通っています」
「ここの下か?」
「はい。中庭側水門へ繋がる支流です」
フェリクスが感心したように笑った。
「よく覚えてるね」
「学院時代、地下構造図を描かされたことがあります」
セレネは少しだけ呆れたような顔をした。その表情を見て、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
フェリクスが立ち上がった。
「入口を探そう。たしか、月桂宮の裏側に旧使用人通路が残ってたはずだ」




