月桂宮の水音①
禁書区域を出た頃には、夜もかなり深くなっていた。図書塔の窓から見える中庭は静まり返り、昼間の気配が嘘みたいに消えている。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「今日はここまでにするか……」
さすがに頭を使いすぎた。地下水路。ノクシア。水鏡の魔女。黒髪の噂。情報が多すぎる。
フェリクスも古書を閉じながら肩を回した。
「そうだね。地下水路を調べるなら、灯りと人手がいる」
「騎士団を動かすか?」
「大規模にやると噂が加速する。まずは内密に確認した方がいい」
その時だった。禁書区域の外から、慌ただしい足音が近づいてきた。ルシアンの目が細くなる。
次の瞬間、扉が軽く叩かれた。
「ルシアン殿下!」
若い女官の声だった。フェリクスが扉を開ける。そこに立っていた女官は、顔を青くしていた。
「月桂宮で……また水音が……!」
空気が変わった。ルシアンは即座に顔を上げる。
「何だと?」
「侍女たちが怯えております……! 窓の外から歌声のようなものも聞こえたと……!」
フェリクスとセレネの視線が、一瞬だけ交わる。
地下水路。王太子妃がいる月桂宮。さっきまで話していた場所だ。
「行くぞ」
ルシアンは迷わなかった。
深夜の王城回廊を、四人は足早に進む。窓の外では、月明かりが白く石畳を照らしていた。夜の王城は広い。だが今夜は妙に静かだ。足音だけが、不自然なくらい響いていた。
月桂宮へ近づくにつれ、人の気配が増える。女官、侍女、護衛騎士。月桂宮は王太子妃リリアーナの私的空間だ。普段、男性が自由に出入りできる場所ではない。
回廊前で控えていた女官長が、ルシアンを見るとすぐに頭を下げた。
「お待ちしておりました、ルシアン殿下」
ルシアンは扉の前へ立ち、軽くノックする。
「王族特務隊隊長、ルシアン・アルヴェリアです。失礼いたします」
中から、穏やかな声が返った。
「どうぞ」
扉が開く。その瞬間、セレネが小さく目を瞬かせた。
「……月桂宮にも入れるのですね」
少し意外そうな声音だった。ルシアンは振り返る。
「言ってなかったか?」
「聞いていません」
淡々と返される。ルシアンは少し眉を上げた。
前に話した気がしたんだが。
「あー……俺、王族特務隊の隊長やってるんだ。王族警護と特殊案件担当。だから月桂宮も管轄内」
セレネは静かに目を開く。
「なるほど……」
本当に初めて知った顔だった。海色の瞳に、純粋な感心が浮かぶ。
「だから殿下は、ここまで深く事件へ関わっていたのですね」
「……今理解したのか」
思わずそんな言葉が漏れる。学院時代からの付き合いで、今までも王都で起こる特殊事件をずっと一緒に担当してきたというのに。
こいつ、自分のことあまり興味がないのかもしれない。
そんな妙な引っ掛かりが胸に残った。横でフェリクスが吹き出す。
「はは。ルシアン、ちょっと寂しそう」
「兄上」
「ちなみに僕は、そんな特務隊長殿のお付きだから今日は特別に入れてもらってるんだよ。本来なら追い出される側」
「自覚はあったんだな」
「もちろん」
そんな軽口を交わしながら、ルシアンは室内へ足を踏み入れた。
部屋には柔らかな灯りが満ちていた。そして、その中央に一人の女性が立っている。
薄いピンク色の髪。柔らかな雰囲気。淡いクリーム色のドレスの上から、薄手のショールを羽織っている。だが何より目を引くのは、その腹部だった。
ゆるやかに膨らんでいる。
リリアーナ・アルヴェリア。
第一王子、王太子レオニスの妻。そして、次代の王族を身籠っている女性だった。
彼女はルシアンたちを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「夜分に申し訳ありません」
「構いません」
ルシアンが静かに返す。リリアーナはそっと腹部へ手を添えながら、小さく息を吐いた。
「中庭で起きている事件のお話は、レオニス様から聞いております」
王太子レオニス。おそらく既に王城警備側から報告が上がっているのだろう。
「侍女たちも、かなり怯えてしまっていて……」
リリアーナは静かに窓辺を見る。
「今夜、また水音がしたそうなんです」
その声は落ち着いていた。周囲が怯えている中で、彼女だけ妙に冷静だった。




