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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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王城の悲鳴

 王城の外から響いた悲鳴が、執務室の静寂を切り裂いた。


 張り詰めていた空気が一瞬で変わる。


 ルシアンは反射的に立ち上がった。


「場所は!」


 だが、報告を待つより早くセレネが動いていた。


 黒いドレスの裾を翻し、そのまま迷いなく扉へ向かう。横顔は驚くほど冷静だったが、海色の瞳だけが鋭く研ぎ澄まされている。


 ルシアンもすぐ後を追った。


 廊下へ出た途端、周囲の使用人たちがざわついているのが見える。


「今の悲鳴……!」

「中庭からだ!」


 中庭からだと聞いた瞬間、ルシアンの脳裏に噴水が浮かんだ。胸の奥へ重たい不安が沈み込み、嫌な予感が現実へ変わり始めているのを感じる。


 石造りの廊下へ靴音が鋭く響く。窓から差し込む昼の陽射しは眩しいほど白いのに、なぜか空気だけが妙に冷たかった。


 やがて中庭へ飛び出した瞬間、騒然とした光景が目へ飛び込んできた。怯えた使用人たちの悲鳴が飛び交い、騎士たちは人々を押し戻しながら慌ただしく走り回っている。


 中央噴水の前には、大きな人だかりができていた。


「下がれ!!」


 騎士たちが使用人たちを押し戻している。


 ルシアンはその人垣を押し分けた。


「何があった!」


 振り返った騎士の顔は青ざめていた。


「じょ、女官が一人……!」


 その瞬間、セレネの視線が噴水脇へ向く。


 石畳の上に、一人の女が倒れていた。


 まだ若い。灰色の制服から王城勤めの女官だと分かる。だが、その顔色は死人のように白かった。乾いた唇が小刻みに震え、浅い呼吸を繰り返している。


 まるで全身から血の気だけが抜け落ちてしまったようだった。


「生きているのか」


 ルシアンが低く問う。


「は、はい……! ですが意識が混乱していて……」


 騎士の声もわずかに震えていた。


 セレネはすでに女官の傍へしゃがみ込んでいる。白い指先が静かに首筋へ触れた。


「脈はあります」


 落ち着いた声だった。


 しかし次の瞬間、セレネの目がわずかに細められる。


 女官の手首には、小さな針穴のような痕が残っていた。皮膚の周囲には微量の血が滲み、近づくと微かに鉄臭い匂いまで感じられる。


 ルシアンの表情が険しくなる。


「……同じか」


「ええ」


 その短いやり取りを聞いた途端、周囲にいた使用人たちの顔色が変わった。ざわついていた中庭から徐々に声が消えていき、誰もが噴水の方を怯えたように見つめ始める。


 女官は突然、小さく身を震わせた。


「いや……」


 掠れた声だった。


「み、水の中に……」


 その場にいた使用人たちが、一斉に息を呑む。


 女官は焦点の合わない目で、噴水を見つめていた。


「いたんです……」


 唇が震える。


「女が……」


 ルシアンは眉を寄せた。


「顔は見たか」


 女官は怯えたように首を振る。


「見えません……でも……」


 その肩が大きく震える。


「笑ってた……」


 その言葉が落ちた瞬間、中庭の空気が張り詰めた。昼の陽射しは変わらず石畳を照らしているのに、肌を撫でる風だけが妙に冷たく感じられる。まるで、この場だけ別の場所へ繋がってしまったみたいだった。


 ルシアンは噴水を見上げた。昼の光を受けて静かに揺れる水面は、何の変哲もないただの噴水に見える。それなのに今だけは、別の何かが水底に潜んでいるように思えた。


「現場を封鎖しろ」


 低い声で命じる。


「この場にいた全員から聞き取りを行え」


「はっ!」


 騎士たちが慌ただしく動き始める。


 その間も、セレネは女官の様子を静かに観察していた。


 ルシアンはその横顔を見る。


「……セレネ?」


 呼びかけると、彼女はゆっくり立ち上がった。


 海色の瞳が、濡れた石畳から噴水へ、そして怯えて逃げ惑う使用人たちへと静かに移っていく。


 その時だった。


 セレネの視線が、ふいに一点で止まる。


 濡れているはずのない石畳に、小さな水滴が一定の間隔で落ちていた。まるで、濡れた誰かがつい先ほどそこを歩いていったようだった。


 セレネの目が鋭く細められる。


 その先――中庭から続く回廊の角に、一瞬だけ黒い影が揺れた気がした。


「……っ」


 次の瞬間、セレネは反射的に駆け出していた。


「セレネ!?」


 ルシアンもすぐ後を追う。


 石廊下へ足音が鋭く響く。


 だが、角を曲がった瞬間、そこには誰の姿もなかった。


 静まり返った回廊に昼の光だけが差し込み、その床には濡れた小さな足跡だけが奥へ続いていた。まるで見えない何かが、今もなお歩き続けているみたいだった。


 濡れた足跡は、回廊の奥へ続いていた。


 白い石床に小さな水滴が点々と残り、昼の陽射しを受けた床の上で淡く光っている。窓の外では、中庭の噴水がいつもと変わらず水を跳ねさせていた。使用人たちは悲鳴の余韻を気にしながらも、騎士に促されて回廊の端へ下がっている。


 ルシアンは床の跡を見下ろし、眉を寄せた。


「またか……」


 セレネは答えなかった。黒いドレスの裾を乱さないように歩きながら、海色の瞳で水滴の並びを追っている。やがて彼女は、回廊の途中で足を止めた。


「……変です」


「何がだ」


 セレネはしゃがみ込み、白い指先で石床の一点を示した。


「ここで途切れています」


 ルシアンが視線を落とす。濡れた跡は、回廊の中央で唐突に消えていた。そこから先の床は乾いている。誰かが拭き取ったなら布の跡や水の広がりが残るはずだが、石床には水滴の端が丸く残っているだけだった。


「……消えてるな」


 背後の騎士たちがざわめく。


「誰かが拭いたのか?」


「ですが、先が……」


「黙ってろ」


 ルシアンが低く制すると、騎士たちは口を閉じた。セレネは床へ視線を落としたまま、足跡の手前を指でなぞらずに追っていく。


「それだけではありません。途中から、右側だけ濡れ方が濃くなっています」


 ルシアンも膝を折り、跡の並びを確かめた。確かに、途中から片側の水滴だけが大きい。水を含んだ靴底が強く押しつけられたように、右側だけ輪郭が潰れ、歩幅もわずかに乱れている。


「右足か」


「ええ」


 フィンの証言。リリアの証言。雨の夜に見たという、足を引きずる女。別々の場所で聞いた話が、同じ方向を向き始めていた。


 その時、セレネの視線が回廊の中央で止まった。陽射しの落ちる石床の上に、黒いものがある。


 彼女は静かに近づき、床に触れないよう注意しながら拾い上げた。ルシアンはその手元を見て、目を細める。


「髪か?」


 黒髪だった。一本ではなく、細い束になっている。根元には深い赤のリボンが緩く結ばれていた。白い石床の上に落ちていれば、見落とす方が難しい。


 セレネの指が、ほんの少し止まった。長い黒髪。彼女自身の髪とよく似た色。ルシアンは一瞬だけ彼女を見たが、すぐに髪束へ視線を戻した。


「学院の死体に絡んでいた髪と同じか?」


「……違います」


 セレネは髪束を光へ向けた。


「前回より短いです。質も違います」


「分かるのか」


「黒く見えますが、地毛とは限りません」


 彼女はリボンの結び目に触れないまま、髪の表面だけを確かめる。


「染めている可能性があります」


 この国では、髪を染める習慣は珍しい。特に貴族社会では、生まれ持った髪色を家の特徴として扱うことが多い。わざわざ黒く染めた髪を残したのなら、それは偶然とは考えにくかった。


 ルシアンは舌打ちした。


「面倒な真似をしやがる」


 背後から、騎士の足音が近づいてきた。駆け込んできた若い騎士は、肩で呼吸をしながら敬礼する。


「殿下、女官を医務室へ運びました」


「意識は」


「戻っておりません。医師によれば、かなり血を失っています。今夜を越えられるかはまだ分からないと」


 ルシアンは回廊の先を見た。そこには、先ほどまで人が倒れていた場所がある。騎士たちが急いで運び出したせいで、床には水と土の跡だけが残っていた。


「王城の中で、ここまでやられたのか」


 ここは王城だ。昼間でも騎士が巡回し、使用人の出入りも多い。外部の人間が簡単に入り込める場所ではない。それでも、犯人はこの回廊にいた。水に濡れた足で歩き、髪束を残し、女官の血を奪っている。


 セレネは窓の外を見た。中庭の噴水が昼の光を反射し、水面を細かく揺らしている。


「……急いだ方がいいですね」


「何をだ」


 セレネはルシアンへ振り返った。


「犯人は、次の噂を作り始めています」


 ルシアンの眉間に皺が寄った。


「次の噂、だと?」


「はい」


 セレネは静かに答えた。


「今回の犯人は、死体だけで終わらせるつもりがありません」


 彼女の視線は、中庭の噴水へ向いている。


「王都、学院、王城。人目につき、噂が広がりやすい場所を選んでいます」


 そばにいた騎士の顔色が変わった。


「ま、まさか、次もあると?」


「分かりません。ですが、止めなければ続くと思います」


 淡々とした声だった。強く言い切ったわけではない。それでも、ルシアンの手は自然と剣の柄へ近づいていた。


「ふざけた真似をしやがる」


 死体を作り、怪談を広げ、王城の中にまで痕跡を残す。犯人が狙っているのは、単なる殺人ではない。水鏡の魔女という名を、人々の頭の中に残すことだ。理解できないものに名がつけば、人はそれを本物のように扱い始める。


 その時、回廊の向こうから複数の足音が近づいてきた。


「殿下」


 現れたのは、王城警備隊長だった。四十代半ばの男で、頬に古い傷がある。普段なら無駄のない足取りで動く男だが、今は歩幅が少し大きい。


「中庭周辺の封鎖を完了しました。出入りしていた使用人、騎士、庭師の確認も進めています」


「不審者は」


「現時点では見つかっておりません。ただ、一つ気になる証言があります」


 ルシアンは目を細めた。


「言え」


「事件直前、中庭で黒い女を見た者がいます」


 周囲の騎士たちがざわめいた。


「またそれか」


 ルシアンは低く吐き捨てる。セレネだけは動かなかった。


「誰が見たのですか」


「庭師と下働きの使用人です。どちらも遠目で、顔は確認できていません」


 隊長は言葉を続けた。


「黒いドレス。長い黒髪。噴水の前に立っていた、と」


 ルシアンは、思わずセレネへ視線を向けた。長い黒髪。黒いドレス。その二つだけなら、今の彼女にも当てはまる。


 周囲の騎士たちも、ほんのわずかに視線を動かした。露骨に見る者はいない。だが、一瞬の間が生まれた。


 セレネ本人は、少しも表情を変えなかった。


「……なるほど」


 小さな声だった。


「何がだ」


「犯人は、魔女の姿を作ろうとしているのだと思います」


 セレネは手の中の髪束へ目を落とした。深い赤のリボンで結ばれた黒髪。白い石床の上に残されていたそれは、誰かが落としたというより、見つけさせるために置いたものに近い。


「黒い服。黒い髪。水辺に立つ女」


 セレネの声は静かだった。


「噂の中に、形を与えようとしている」


 ルシアンの表情が険しくなる。


「つまり」


「誰かに、魔女役を押し付けるつもりなのかもしれません」


 その言葉のあと、騎士たちの視線がわずかに揺れた。誰も口には出さない。だが、ルシアンには分かった。


 長い黒髪。黒いドレス。白い肌。人前で表情を崩さない美貌。


 水鏡の魔女という噂に、いちばん重ねやすい姿をしているのは、セレネだった。


王城の悲鳴を①②③をくっつけました

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