王城の噴水①
王城へ戻った頃には、太陽はすっかり高く昇っていた。
昼前の陽光が、王城の白い石壁を眩しく照らしている。
昨夜の雨が嘘みたいな青空だった。
だが。
王都の空気は重い。
王都で起きた連続殺人の噂は、すでに城下へ広がり始めていた。
一件目は貴族街の噴水広場。
二件目は王立学院の中庭。
どちらも水辺で見つかり、
どちらも全身の血を抜かれ、
どちらも笑っていた
そして今、人々はその名を口にし始めている。
――水鏡の魔女。
王城内ですら、使用人たちが小声で噂しているのが聞こえてきた。
ルシアンは執務室へ入るなり、小さく息を吐く。
「最悪だな」
机の上には、すでに大量の報告書が積まれていた。
学院側からの報告。
騎士団の聞き取り。
王都警備隊からの連絡。
そして。
怪談めいた目撃証言。
「怪異だの亡霊だの……好き勝手言いやがって」
ルシアンは眉間を押さえた。
向かい側では、セレネが静かに外套を脱いでいる。
黒いドレスには、まだ僅かに女子寮の埃が残っていた。
「フィンは?」
「授業へ戻しました」
セレネは淡々と答える。
「これ以上現場へ置くべきではありません」
「まあ正解だな」
ルシアンは椅子へ腰を下ろした。
フィンはまだ十五だ。
連続殺人の中心へ置いておくには若すぎる。
その時だった。
執務室の扉が叩かれる。
「殿下」
入ってきたのは、ルシアン直属の部下だった。
三十代前半ほどの騎士。
茶髪を短く整えた、真面目そうな男だ。
「調べさせていた件、まとまりました」
ルシアンが目を細める。
「リリア・セインの件か」
「はい」
騎士は一瞬言葉を選ぶように沈黙した。
そして。
「……あまり良い家庭環境ではなかったようです」
部屋の空気が静まる。
セレネは何も言わない。
ただ静かに続きを待っている。
「セイン伯爵はかなり厳格な人物で、娘へ強い成績要求をしていたようです」
騎士は報告書を開く。
「学院内の成績順位にも異常に執着しており、成績低下があった際は長期間外出禁止になることも」
ルシアンが眉を寄せた。
「母親は?」
「社交界を優先する方だったようで、娘との関係はかなり希薄だったと」
沈黙。
昼の日差しが、窓から静かに差し込んでいる。
「使用人証言では、リリア嬢は幼少期からかなり精神的に追い詰められていたようです」
騎士は小さく息を吐く。
「“失敗するくらいなら生まれなければ良かった”と言われていたという話もあります」
ルシアンの表情が険しくなる。
「……胸糞悪いな」
セレネだけは静かだった。
感情を動かした様子もない。
だが。
その海色の瞳は、わずかに冷えている。
「アルバート教師との関係は」
セレネが尋ねる。
「かなり依存していた可能性があります」
騎士は頷いた。
「教師側も頻繁に個別補習を行っていたようで、学院内では少し噂になっていました」
「噂?」
「“贔屓している”と」
ルシアンは小さく舌打ちした。
だが。
セレネは静かに目を伏せる。
女子寮で聞いた話と一致していた。
孤独。
承認不足。
追い詰められた精神。
そこへ、唯一優しくしてくれる大人が現れた。
依存するなという方が難しい。
「殿下」
騎士が再び口を開く。
「もう一つ気になる話があります」
ルシアンが顔を上げる。
「何だ」
「アルバート教師ですが、最近誰かと揉めていたという証言が複数あります」
部屋の空気が変わる。
「誰とだ」
「そこまでは分かっていません。ただ……」
騎士は少し迷うように続けた。
「“女の声を聞いた”という証言があります」
ルシアンが眉を寄せる。
「女?」
「深夜の図書塔付近で、教師と誰かが言い争っていたと」
セレネの海色の瞳が、静かに細められる。
フィン。
そしてリリア。
二人の証言が、少しずつ繋がり始めていた。
雨の夜。
噴水。
小柄な人物。
右足を引きずる女。
そして。
死んだ教師。
執務室へ、重い沈黙が落ちる。
窓の外では、昼の鐘が遠く鳴っていた。
王城の中庭を歩く使用人たちの姿も見える。
いつも通りの昼。
だが。
王都では今、二人も死んでいる。
しかも、異様な形で。
ルシアンは椅子へ深く腰掛けたまま、机を軽く指で叩いた。
「……で、その“女”については?」
騎士が首を横へ振る。
「証言が曖昧です。雨が強かったこともあり、顔を見た者はいません」
「フード姿か」
「はい」
ルシアンは小さく息を吐く。
そこまでは、フィンとリリアの証言と一致している。
だが。
「気になるのは、なぜ教師がそんな相手と深夜に会っていたかだな」
セレネが静かに口を開く。
「約束していた可能性があります」
ルシアンが視線を向ける。
「リリアには図書塔へ来るよう連絡している。つまりアルバート教師自身も、昨夜誰かと接触する予定があった」
「その相手が例の女?」
「可能性は高いかと」
セレネは淡々と言った。
だが。
その海色の瞳は、わずかに思考を深めている。
「ですが、妙です」
「何が」
「リリア様へ声をかけている点です」
セレネは静かに続けた。
「もし教師が秘密裏に誰かと会う予定だったなら、生徒を呼び出すのは不自然です」
ルシアンが眉を寄せた。
「確かに」
「しかもリリア様は途中で帰っている。教師側にそれを止めた形跡もありません」
つまり。
アルバート教師は、本当に補習のつもりだった可能性もある。
その途中で、別の誰かと接触した。
「偶然鉢合わせた?」
ルシアンの呟きに、セレネは小さく首を横へ振った。
「断定はできません」
その時だった。
騎士がもう一枚、報告書を差し出す。
「あと、こちらも気になる点です」
ルシアンが受け取る。
「……靴?」
「学院内の生徒記録です」
騎士は続けた。
「右足に古傷を持つ女子生徒を調べました」
部屋の空気が変わる。
セレネの瞳が、静かに細められる。
「いたのか」
「数名います。ですが――」
騎士は少し言いづらそうに続けた。
「一人、条件へかなり一致する人物がいます」
ルシアンは目を細めた。
「誰だ」
騎士は報告書へ視線を落とす。
「エレノア・ローディア嬢です」
一瞬。
空気が止まった。
ルシアンの表情が険しくなる。
「……ローディア?」
その名は、王都でも特別な意味を持つ。
ローディア公爵家。
古くから王家と並ぶほどの権力を持つ、巨大貴族。
政治。
軍。
教会。
あらゆる場所へ影響力を持っている。
セレネは静かに目を伏せた。
そして。
ほんの僅かに、視線だけが冷える。
「なるほど」
小さな呟きだった。
ルシアンはその横顔を見る。
「……お前、何か知ってるな?」
だが。
セレネはすぐには答えなかった。
昼の光が、静かに執務室へ差し込んでいる。
その横顔は相変わらず美しい。
なのに。
今だけは、妙に冷たく見えた。
ようやく、彼女が小さく息を吐く。
「ローディア公爵家は、昔から王立学院へ強い影響力を持っています」
「それは知ってる」
「特に図書塔です」
ルシアンの視線が細くなる。
「図書塔?」
「学院内でも、古い記録が集められている場所ですから」
セレネは静かに続けた。
「歴史学教師だったアルバート教師が、ローディア家と接触していても不思議ではありません」
騎士が小さく頷く。
「実際、アルバート教師は最近かなり古い資料を調べていたそうです」
「どんな資料だ」
「詳細はまだ。ただ、学院側によると“禁書庫に近い区域”への立ち入り申請が増えていたと」
ルシアンの表情が険しくなる。
王立学院の図書塔には、一般公開されていない古文書が存在する。
怪異譚。
古い宗教。
失われた事件記録。
王国成立以前の資料まで。
内容によっては、閲覧制限がかかるものもあった。
「……偶然にしては出来すぎてるな」
「ええ」
セレネは静かに答える。
「王都の連続殺人。水鏡の魔女。図書塔。ローディア家。全部が繋がり始めています」
ルシアンは椅子へ深く座り直した。
「問題は、どこまでが人間で、どこからが噂かだ」
セレネは何も言わない。
その沈黙が、逆に答えみたいだった。




