第85話 安堵
先ほどまでの緊張が、まだ完全には抜けていない。
けれど。
隣を歩くセラフの穏やかな表情を見るたびに、リゼルの胸の奥にあった張り詰めたものが、少しずつほどけていくような気がした。
長い廊下を抜け。
いくつもの扉を通り過ぎ。
やがて二人は、王城の外へと出た。
外の爽やかな光と空気が、静かに頬を撫でる。
リゼルは思わず、小さく息を吐いた。
「……終わりましたね」
「はい」
セラフが隣で頷く。
「長い一日でございました」
「そうですね」
リゼルも小さく笑った。
王城を出たところで、セラフは辺りを見回す。
ヴォルガドたちは、どこにいるのだろう。
少し先。
城門から続く道の脇に、見覚えのある三人の姿があった。
ヴォルガド
モルディナ
カトレア
「あ」
セラフの表情が、ぱっと明るくなる。
「いらっしゃいました」
その声に、三人がこちらを振り返った。
最初にセラフへ視線を向けたのは、モルディナだった。
彼女は一瞬、目を見開いた。
まるで、そこにいるはずのないものを見つけたように。
「……セラフちゃん?」
声が、わずかに震えていた。
セラフは不思議そうに首を傾げる。
「はい、そうですわ」
そして、いつものように柔らかく微笑んだ。
「戻りました」
その瞬間。
モルディナの表情が大きく崩れた。
「本物?」
「ええ、本物ですわ」
セラフが答え終わるより早く。
モルディナはまっすぐに駆け出していた。
「セラフちゃん!」
勢いのまま、セラフへ抱きつく。
セラフの身体が、ふわりと包み込まれた。
「まあ……」
驚いたように瞬きをしながらも、セラフはすぐにモルディナの背へ腕を回す。
「ただいま戻りました、モルディナさん」
「もう……もう、心配したんだからぁ!」
モルディナはセラフを抱きしめたまま、なかなか離れようとしなかった。
「急にいなくなって、王城に呼ばれたって聞いて……何かあったのかと思ったじゃない」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいの。無事なら、それでいいのよ」
そう言いながらも、モルディナの腕には力がこもっている。
セラフが本当にここにいるのか確かめるように。
その様子を見ていたカトレアも、安堵したように息を吐いた。
「本当に、無事でよかった」
ヴォルガドは何も言わなかった。
ただ、セラフの姿をじっと見つめている。
その視線には、普段よりもわずかながら強い感情が滲んでいた。
やがて、モルディナがようやくセラフから離れる。
けれど、両手はまだセラフの肩に置かれたままだった。
「怪我はない?」
「はい。どこも痛くありませんわ」
「本当に?」
「本当です」
「無理をしていない?」
「しておりません」
「怖い思いは?」
「少しだけ、ございましたけれど……」
セラフは隣に立つリゼルを見た。
「リゼルさんが一緒にいてくださいましたから」
モルディナの視線が、初めてリゼルへ向く。
その目には、心配の余韻がまだ残っていた。
「あなたが一緒だったのね」
「はい」
リゼルは姿勢を正す。
「セラフさんに付き添っていただきました」
「そう」
モルディナはリゼルを見つめた。
「ありがとう」
「いえ、私の方がお世話になったんです。」
リゼルが答えると、モルディナはようやく少しだけ表情を和らげた。
その隣で、ヴォルガドが口を開く。
「……遅かったな」
いつも通りの、短い言葉だった。
けれど、その声にもわずかな安堵が混じっている。
セラフはモルディナへ微笑みかけたあと、ヴォルガドへ向き直った。
「申し訳ございません。少し、お時間がかかってしまいました」
大きく頭を下げた。
「な!べ、別に責めているわけではない」
「はい」
セラフは素直に頷いた。
カトレアも穏やかに微笑む。
「国王陛下と話しをされていたのね。貴女ほんとにすごいわね」
「はい」
セラフはそう答えながら、ふと隣を見る。
リゼルもまた、ヴォルガドたちへと視線を向けていた。
これまで、何度か顔を合わせてはいる。
けれど。
こうして改めて皆の前に立つと、少しだけ不思議な気持ちになる。
ほんの少し前まで。
自分がこの先、どこで何をするのか。
それすら決まっていなかった。
なのに今は。
この人たちと、これから一年を過ごすことになっている。
「それで?」
モルディナが、今度はセラフの腕に手を添えたまま尋ねた。
「話はどうなったの?」
その問いに。
セラフは、嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
そして、リゼルを見る。
「リゼルさんに、一年間のお時間をいただけることになりました」
一瞬。
三人の視線が、リゼルへと向けられる。
「一年間?」
カトレアが目を瞬かせた。
「はい」
リゼルは少しだけ緊張した様子で答える。
「国王陛下より、猶予をいただきました」
「その間は、自分自身の気持ちを整理する時間として」
言葉を選びながら続ける。
「セラフさんと……皆さんと、ご一緒させていただくことになりました」
モルディナが、ゆっくりと目を細める。
「へぇ」
その一言には、驚きよりも。
どこか面白がっているような響きがあった。
「一年間も?」
「……はい」
リゼルが少しだけ困ったように笑う。
「そうなりました」
「なるほどねぇ」
モルディナは、今度はセラフを見る。
「セラフちゃんは、それでいいの?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「リゼルさんと、もう少しご一緒できるのは嬉しいです」
その言葉に。
リゼルの表情が、ほんの少しだけ変わった。
それは。
先ほど、セラフが自分へ頷いてくれた時と同じような。
小さな。
けれど確かな喜びだった。
「……そう」
モルディナは、今度こそ安心したように微笑んだ。
「セラフちゃんがそう言うなら、私も嬉しいわ」
カトレアもまた、穏やかに頷く。
「では、これからよろしくお願いしますね、リゼルさん」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リゼルが深く頭を下げる。
そして。
最後に、ヴォルガドへ視線を向けた。
ヴォルガドは、しばらくリゼルを見ていた。
一年間。
決して短い時間ではない。
それも、これからセラフたちと共に過ごすという。
リゼルは、僅かに緊張した。
「……そうか」
ヴォルガドが口を開く。
「はい」
「国王が認めたのなら、それでよい」
簡潔な言葉だった。
だが。
それだけで十分だった。
「セラフも望んでいる」
ヴォルガドは、セラフへ一度だけ視線を向ける。
「ならば、余が何か言うことでもない」
リゼルは一瞬、目を見開いた。
そして。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
セラフは、そんな二人を見ながら。
とても嬉しそうに微笑んでいた。
「よかったです」
「何がだ」
「皆さんが、リゼルさんを受け入れてくださって」
「……当然だ」
「はい」
セラフは楽しそうに頷いた。
「ですから、これからですね」
ヴォルガドは、僅かに眉を寄せる。
その言葉の意味を考えるより先に。
モルディナが笑った。
「そうねぇ」
「一年もあるんだもの」
「何が起こるか、分からないわね」
「……何も起こらない方がいい」
ヴォルガドが呟く。
「それはどうかしら?」
「モルディナ」
「ふふ」
カトレアが小さく笑う。
リゼルもまた。
つられるように笑っていた。
そして、その笑顔を見たセラフは。
ようやく少しだけ安心したように、静かに微笑むのだった。




