第80話 名を消された聖女たち
静まり返った広間には、歴代の聖女たちの壁画が整然と並んでいた。
高い天井から差し込む柔らかな陽光が、一枚一枚を静かに照らしている。
サイラスは、ゆっくりと壁画へ目を向けながら歩き出した。
「すごい……」
ミレニアが思わず息を漏らす。
「こんな場所が残ってたなんて」
「これだけの施設だ」
サイラスも静かに辺りを見回す。
「取り壊されなかった理由があるんだろう」
二人は壁画を一枚ずつ見て回る。
そこには歴代の聖女たちの肖像。
名前。
功績。
生きた時代。
どれも丁寧に刻まれていた。
しかし。
サイラスの足が止まる。
「……」
「どうしたの?」
彼は壁画の下へ視線を落とした。
そこだけ石が不自然に削られている。
「名前が消されている」
ミレニアも近寄る。
「本当だ……」
「どうして?」
サイラスは指先で削られた跡をなぞる。
「分からない」
「だが、意図的だ」
二人はさらに奥へ進む。
そして、また一枚。
その次も。
さらにその先でも。
同じように、名前だけが削られた壁画が現れた。
「また……」
ミレニアの声が小さく震える。
「顔は残ってるのに」
「名前だけ……」
サイラスは静かに頷いた。
「妙だな」
「本当に存在を消したいなら、壁画そのものを壊せばいい」
「なのに、それはしていない」
「名前だけを削っている」
しばらく考え込み、ゆっくりと言葉を続ける。
「存在は消したい」
「だが、この壁画だけは残さなければならなかった」
「そんな事情でもあったのかもしれない」
ミレニアは壁画を見上げた。
「そんなことってあるのかな……」
「分からない」
サイラスは静かに答える。
「だが、この国は俺たちが思っている以上に、多くのものを隠している」
二人はさらに奥へ進んだ。
その時だった。
ひときわ大きな壁画が、視界へ飛び込んできた。
「……」
二人は同時に足を止める。
そこに描かれていたのは、一人の女性。
陽光を思わせる美しい金髪。
透き通るような碧い瞳。
すべてを包み込むような優しい微笑み。
その姿だけが、不思議なほど鮮やかな色彩を残していた。
「綺麗……」
ミレニアが思わず呟く。
「今までの人たちとは、何か違う」
サイラスも目を離せなかった。
「……ああ」
「この人だけ、空気が違う」
自然と壁画の下へ目を向ける。
そこに刻まれていたはずの名は──。
やはり、削り取られていた。
長い沈黙が流れる。
サイラスは壁画を見つめたまま、小さく口を開いた。
「この人が……」
一拍置く。
「この場所で、最も重要な人物だったのかもしれない」
答えはない。
壁画の女性は、優しく微笑んだまま、何も語ることはなかった。
サイラスは視線を外さぬまま、ゆっくりとしゃがみ込む。
削り取られた名前。
その断面を指先でなぞった。
「……」
しばらく無言のまま観察を続ける。
「何か分かったの?」
ミレニアが隣へしゃがみ込む。
サイラスは削られた石肌を見つめたまま、小さく頷いた。
「削られた時期は、それほど離れていない」
「え?」
「見てみろ」
彼は別の壁画へ歩み寄る。
そこでも同じように名前だけが削られていた。
さらに奥。
もう一枚。
そのまた隣。
削られた跡は、どれもよく似ている。
「同じ道具……」
ミレニアがぽつりと呟く。
「ああ」
サイラスは静かに頷いた。
「少なくとも、長い年月をかけて少しずつ消されたものじゃない」
「ある時期に、一斉に行われた可能性が高い」
ミレニアは壁画を見回した。
「つまり……」
「誰かが命令したってこと?」
「その可能性はある」
サイラスは腕を組む。
「個人の判断で、これだけの壁画へ同じ細工はできない」
「国の命令か」
「それとも、この施設を管理していた者の判断か」
答えは見つからない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この国は、何かを隠そうとしている。
◇ ◇ ◇
二人は再び歩き始めた。
回廊の奥へ。
壁画は少しずつ数を減らしていく。
やがて、飾られていたはずの場所がぽっかりと空いていた。
「……あれ?」
ミレニアが立ち止まる。
「ここだけ何もない」
白い壁。
しかし、よく見ると四角く色の違う跡が残っている。
サイラスはその前へ歩み寄った。
「壁画が外されている」
「えっ?」
「長い間ここに掛けられていた跡だ」
石壁だけが白く残り、周囲との色の違いがはっきりと分かる。
「じゃあ……」
「名前だけじゃなく」
「壁画ごと消された人もいるってこと?」
サイラスは静かに息を吐いた。
「そう考えるのが自然だろう」
「名前だけを消した者」
「壁画ごと消した者」
「何を基準に分けたのかは分からない」
ミレニアは背筋に冷たいものを感じた。
「何だか……」
「怖いね」
「ああ」
「歴史を残したい者と、消したい者」
「そんな意思が混ざっているように見える」
その時だった。
コト……。
小さな物音が回廊の奥から聞こえた。
二人は同時に振り返る。
静まり返った廊下。
風が吹き抜ける音だけが響いている。
「今の……」
ミレニアが小声で呟く。
サイラスは静かに剣の柄へ手を添えた。
「気のせいじゃない」
ゆっくりと足を進める。
一歩。
また一歩。
しかし、角を曲がっても誰の姿もなかった。
ただ、静かな白い回廊だけが続いている。
「……」
サイラスは周囲を見渡し、小さく息を吐いた。
「ここには、まだ誰かの気配が残っている」
「俺たちだけじゃない」
ミレニアも小さく頷く。
「うん」
「そんな気がする」
二人は歩みを止め、もう一度壁画を振り返った。
名を失った聖女たち。
消えた壁画。
そして、今もなお静かに維持され続ける旧施設。
サイラスは静かに呟く。
「この国は……」
「人だけじゃない」
「名前を消し」
「歴史を消している」
その言葉が回廊へ溶け込んだ、その時──。
遠くから鐘の音が響いた。
澄み渡る鐘の音は、静かな旧区画にも優しく届く。
サイラスは耳を澄ませ、小さく空を見上げる。
「城の鐘か……」
その音が何を告げるものなのか、二人はまだ知らない。
だが、その鐘の音とともに。
この国の運命は、静かに動き始めていた。




