第79話 白き回廊
サイラスとミレニアは、しばらくその場を動けなかった。
鉄格子の向こうでは、アレミニールがいつもと変わらぬ表情で壁にもたれ、二人へ小さく手を振る。
「行け」
その一言だけだった。
余計な言葉はない。
だからこそ、その一言には揺るぎない重みがあった。
サイラスは静かに一礼する。
「……必ず」
言いかけた言葉を飲み込む。
アレミニールは首を横に振り、小さく笑った。
「約束するなら、生きて帰ることだけにしろ」
「……はい」
短く返事をすると、二人は踵を返した。
◇ ◇ ◇
やがて監獄の喧騒は遠ざかり、辺りを包む空気が少しずつ変わっていく。
石造りの通路。
薄暗い照明。
規則正しく並ぶ鉄格子。
重々しい扉。
その先は、行き止まりに見えた。
「サイラス……ここ、行き止まりだよ」
「いや、待て」
サイラスは壁へ歩み寄り、指先で石壁をなぞる。
「ここを見てみろ」
壁の一部に、不自然な細工の跡が残されていた。
彼は思わず口元を緩める。
「……リーダーの仕業だな」
「え?」
「こういう仕掛けを作らせたら、右に出る者はいない」
指先で石を押し込む。
カチッ。
乾いた音が響いた。
すると重い石壁が静かに横へ滑り、一人がようやく通れるほどの隙間が現れる。
「さすがリーダーね」
「ああ。本当に頼れる人だ」
「うん! 行こう!」
二人は身を滑り込ませ、そのまま足早に奥へ進んだ。
◇ ◇ ◇
薄暗い回廊は、次第に柔らかな光を帯び始める。
その時。
ふわりと風が吹き抜けた。
「……」
ミレニアが思わず足を止める。
「どうした?」
「何だろう……」
辺りを見回し、小さく首を傾げた。
「ここ、監獄なのに空気が違う」
サイラスも静かに息を吸い込む。
「……確かに」
湿った牢獄特有の匂いは薄れ、代わりにどこか懐かしい香りが微かに漂っていた。
「花……かな」
ミレニアが呟く。
「こんな所で?」
「分からない」
サイラスはゆっくりと周囲を見渡した。
長い年月、人の手が入っていないはずなのに、不思議と荒れ果てた印象はない。
誰も住んでいない。
それなのに、この場所だけは静かに時が流れ続けているようだった。
さらに奥へ進む。
やがて、視界が開けた。
「……」
二人は思わず立ち止まる。
目の前に広がっていたのは、監獄とは思えないほど美しい白い回廊だった。
「ここ……本当に監獄の隣なの?」
ミレニアが息を呑む。
白い柱。
高い天井。
色褪せながらも美しいステンドグラス。
その奥には、静かな中庭まで見えている。
「まるで教会みたい……」
サイラスも静かに頷いた。
「ああ」
「ここで聖女たちが暮らしていたと言われても、不思議じゃない」
二人は慎重に歩みを進める。
その時だった。
「……待て」
サイラスの足が止まる。
「え?」
白い石壁には、繊細な装飾が今なお残されていた。
長い年月を経たとは思えないほど、その美しさは保たれている。
彼は静かに壁へ手を添えた。
冷たい石の感触。
指先でなぞると、所々に補修された跡があることへ気付く。
「ミレニア」
「うん?」
「こっちを見てみろ」
促されるまま壁へ近付く。
「あれ……」
「ここだけ、少し色が違う」
「ああ」
サイラスは静かに頷いた。
「補修されている」
壁だけではない。
柱も。
床も。
天井も。
よく見れば、人の手が入った痕跡が至る所に残されている。
放棄された建物とは、とても思えなかった。
「やっぱり変だよ」
ミレニアが辺りを見回す。
「使われてない場所なのに……」
サイラスも静かに頷く。
「風化しているわけじゃない」
「誰かが、この場所を維持している」
静かな風が回廊を吹き抜ける。
その音だけが、二人の耳へ届いた。
「何のためだ……」
サイラスは回廊の奥を見つめる。
「この場所を封じるためか」
一拍置く。
「それとも……」
その瞳が細くなった。
「何かを待っているのか」
答えはない。
静寂だけが続いていた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
サイラスの視線が床で止まる。
「……待て」
ミレニアも足を止めた。
「どうしたの?」
床には薄く埃が積もっている。
だが、その一部だけが不自然に途切れていた。
誰かが歩いた跡。
しかも、ごく最近のものだ。
「足跡だ」
サイラスはしゃがみ込み、静かに指でなぞる。
「新しい」
「じゃあ……」
「ああ」
「俺たちより先に、誰かがここへ来ている」
二人は顔を見合わせた。
足跡は、そのまま回廊の奥へと続いている。
「行こう」
足音を殺しながら慎重に進む。
やがて、一枚の大きな扉が見えてきた。
僅かに開いている。
サイラスは壁へ身を寄せ、中の様子を窺う。
「……誰もいない」
二人はゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。
そこには幾枚もの壁画が並び、歴代の聖女たちが静かにこちらを見つめている。
神聖な空気に、二人は思わず息を呑んだ。
「ここ……」
ミレニアが小さく呟く。
「聖堂みたい」
その時。
サイラスの視線が、一枚の壁画の前で止まった。
「見ろ」
壁画の前だけ、埃が払われている。
まるで、つい先ほどまで誰かが立っていたかのように。
「やっぱり……」
「ここに誰かいた」
その瞬間。
カツン。
回廊の奥から、小さく靴音が響いた。
二人は同時に振り返る。
「いた!」
サイラスは駆け出した。
ミレニアも慌ててその後を追う。
白い回廊を駆け抜け、角を曲がる。
だが。
「……」
そこには誰もいなかった。
静かな風だけが吹き抜け、長い回廊が奥へと続いている。
サイラスはゆっくりと息を吐いた。
「逃げられたか……」
ミレニアも辺りを見回す。
「誰だったんだろう」
サイラスは静かに足元へ目を落とした。
新しい足跡だけが、さらに奥へと続いている。
「少なくとも、一つだけ分かった」
「俺たち以外にも、この旧区画を調べている者がいる」
二人は再び顔を見合わせ、小さく頷く。
静まり返った旧区画は、何事もなかったかのように二人を迎え入れていた。




