第77話 名を奪われた聖女
三人は城から視線を外し、壁画を眺めながら静かに回廊を進んでいた。
削り取られた聖女の顔。
名だけが消された碑。
誰かの存在だけが、まるで最初からなかったことにされている。
この建物には、確かに歴史があった。
そして、その歴史は誰かの手によって塗り替えられている。
重苦しい空気が、三人を包んでいた。
その時だった。
ヴォルガドが、不意に歩みを止める。
「……」
視線の先には、一枚の大きな壁画があった。
他の壁画とは、明らかに違う。
色褪せることなく鮮やかな色彩を保ち、まるでそこだけ時が止まってしまったかのような美しさを湛えている。
「どうしたの?」
モルディナとカトレアも、その壁画へ目を向けた。
そこに描かれていたのは、一人の女性だった。
陽光を思わせる、美しい金髪。
透き通るような碧い瞳。
すべてを優しく包み込むような、穏やかな微笑み。
その姿は、周囲に描かれたどの聖女よりも気高く、そしてどこか温かかった。
三人は言葉を失う。
見覚えがある。
いや、見覚えというより。
自然と、ある少女の姿が脳裏に浮かんでいた。
「……セラフちゃん」
最初に声を漏らしたのは、モルディナだった。
「……セラフィナイト」
続いて、カトレアが静かに呟く。
ヴォルガドも壁画から目を離さぬまま、小さく口を開いた。
「……セラフか」
三人とも、同じ人物を思い浮かべていた。
もちろん、別人だ。
年齢も違う。
纏う雰囲気も、どこか大人びている。
それでも。
その笑顔だけは、驚くほどよく似ていた。
モルディナが、ゆっくりと壁画へ歩み寄る。
「もしかして……セラフちゃんのお母さんじゃないかしら」
カトレアは静かに頷いた。
「そう考えるのが自然だわ。
セラフは、お母さんのことを何も知らないって言っていたもの」
壁画の女性を見つめ、小さく微笑む。
「笑った顔まで、本当によく似てる」
ヴォルガドは腕を組み、しばらく黙って壁画を見つめていた。
「余もそう思う」
低く響く声。
「この女性は、ただの聖女ではあるまい。
この場所の中心にいた者……そんな気配を感じる」
モルディナは壁画の下へ視線を落とした。
「あれ?」
小さく首を傾げる。
「名前が……ない」
正確には、ないのではない。
削られていた。
誰かが意図的に、その女性の名だけを削り落としていたのだ。
カトレアも膝をつき、その跡をそっと指でなぞる。
「どうして……こんなことを」
ヴォルガドは静かに目を閉じた。
「名を消せば、人はいずれ忘れる」
その一言が、静かな回廊へ重く響く。
誰も言葉を返せなかった。
ただ一枚の壁画だけが、何も語ることなく三人を見つめ返していた。
ふと、カトレアが壁画へゆっくりと歩み寄る。
指先で、そっと絵肌をなぞる。
「……」
何かに気付いたように、その指が止まった。
「どうした?」
ヴォルガドが尋ねる。
カトレアは壁画から目を離さない。
「この壁画だけ……違う」
「違う?」
モルディナも隣へ歩み寄る。
「見て」
カトレアが指差した先には、幾重にも重ねられた絵の具の跡があった。
近くで見なければ気付かないほど、丁寧に塗り重ねられている。
「補修されてる……。
しかも、一度や二度じゃない」
壁画全体ではない。
女性の姿だけが、何度も、何度も修復されていた。
モルディナは目を丸くする。
「じゃあ、この壁画だけ誰かが……」
カトレアは静かに頷いた。
「守っていたのね」
ヴォルガドは腕を組み、しばらく黙っていた。
「なるほど」
低く響く声が、静寂を破る。
「消そうとした者がおる。
そして、残そうとした者もいたということか」
三人は再び壁画を見つめる。
削られた名。
それでも塗り直された微笑み。
誰かが、この女性だけは忘れさせまいと、密かに守り続けてきたのだ。
「でも……」
モルディナは首を傾げる。
「どうして名前だけ消したのかしら」
ヴォルガドは静かに壁画へ視線を向けた。
「顔を消せば、人は違和感を抱く。
だが、名だけなら。
時と共に、人は忘れる」
カトレアは小さく息を呑んだ。
「歴史そのものを消すんじゃなくて……」
一拍置き、静かに続ける。
「歴史を語る人を、消したかった」
重苦しい沈黙が、回廊を包む。
その時だった。
「あっ……」
カトレアが壁画の隅へ目を留める。
そこには、小さな百合の紋章が刻まれていた。
ほとんど消えかけている。
それでも確かに、そこにあった。
「この紋章……」
ヴォルガドも視線を向ける。
「知っておるのか」
カトレアは首を横に振った。
「分からない。
でも……見たことがある気がする」
懐かしいような。
胸が締め付けられるような。
そんな不思議な感覚だけが残る。
ヴォルガドは壁画へ最後の一瞥を送り、静かに踵を返した。
「行くぞ」
「え?」
モルディナが振り返る。
「余の勘だ。
「余らが向かうべき場所は、あそこだ」




