第73話 忘れられた聖女たち
【ヴォルガド視点】
ヴォルガドは静かに通路を進んでいた。
その姿は誰にも見えない。
透明化。
人の目も、魔力による感知もすり抜ける。
だからこそ気付けるものがある。
誰も気に留めない違和感。
誰も見逃してしまう痕跡。
そして――
ふと、足が止まった。
「……?」
違和感。
探知を広げる。
セラフィナイト。
いつもなら分かる。
隣にいなくとも、城の反対側にいようとも。
あの少女の存在だけは見失わない。
だが今は違った。
「消えたか」
ヴォルガドが小さく呟く。
死んではいない。
契約も切れていない。
生命反応もある。
ならば答えは一つ。
「隔離されたな」
あるいは、この施設のさらに内側。
探知そのものを遮断する場所へ移されたのだろう。
おそらく、リゼルの元へ辿り着いた。
ヴォルガドは短く息を吐く。
「ならば問題あるまい」
むしろ、今優先すべきは別だった。
モルディナとカトレアへ情報を共有すること。
そう判断して歩き出そうとした、その時だった。
視界の端に、古びた扉が映る。
旧区画。
セラフィナイトたちが入り込んだ場所とは別の部屋だ。
だが、なぜか足が向いた。
ゆっくりと扉を開き、中へ入る。
広い。
監獄とは思えないほど、高い天井。
薄暗い空間。
壁には色褪せた壁画が描かれ、机や椅子、朽ちた本棚が静かに残されている。
誰かが暮らしていた部屋だった。
ヴォルガドは壁画へ視線を向けた。
聖女。
また聖女。
こちらにも聖女。
どれも祈りを捧げ、穏やかに微笑んでいる。
だが、そのどれにも名は記されていない。
「……なるほどな」
静かに呟く。
この国は聖女を崇めている。
そう思っていた。
だが違う。
壁画の数が多すぎる。
部屋の数も多すぎる。
そして――誰も語らない。
「途切れていない」
歴史の中で、聖女は確かに存在していた。
何人も。
何人も。
何人も。
それなのに。
「誰も知らぬか」
その時だった。
通路の奥から気配を感じる。
ヴォルガドは静かに壁際へ身を寄せた。
現れたのは、モルディナとカトレアだった。
「ヴォルガド!」
モルディナが声を潜める。
「いたのね」
「余だ」
「それは見れば分かるわよ」
モルディナが呆れたように返す。
だがカトレアは違った。
部屋へ足を踏み入れた瞬間から、黙ったまま辺りを見回している。
いや。
見ているのではない。
感じていた。
「カトレア?」
モルディナが声をかける。
返事はない。
やがてカトレアは胸元を押さえ、小さく呟いた。
「……変ね」
「何が?」
「分からない」
首を横に振る。
「でも」
一歩。
部屋の中央へ歩み出る。
「何かいる」
誰もいない。
部屋は空だ。
それでも、空ではない。
そんな感覚があった。
カトレアは壁画へ手を伸ばす。
指先が触れた、その瞬間。
「っ……!」
胸の奥が締め付けられるような感覚が走る。
「カトレア!」
モルディナが慌てて支える。
だがカトレアは、壁画から目を離さなかった。
「寒い……」
「寒い?」
「違う」
首を振る。
「温度じゃない」
言葉にできない。
孤独。
祈り。
願い。
諦め。
そんな感情が、壁そのものへ染み込んでいるようだった。
「この部屋……」
小さく呟く。
「泣いてるみたい」
沈黙が落ちる。
モルディナもまた、何かを感じ始めていた。
「魔力が残ってるわ」
静かな声だった。
「でも、誰のものか分からない」
長い年月を経て変質した魔力。
感情そのものが沈殿したような、不思議な残滓だった。
ヴォルガドは壁画を見上げる。
聖女。
聖女。
また聖女。
何人いるのかさえ分からない。
「……ねぇ、ヴォルガド」
カトレアが呟く。
「この人たちって何なの?」
ヴォルガドはしばらく答えなかった。
やがて静かに口を開く。
「聖女だろうな」
「それは見れば分かるわよ」
「そうだな」
一拍置き、壁画を見つめたまま続ける。
「問題は」
「なぜ誰も知らんのかだ」
二人は何も返せなかった。
確かに、その通りだった。
これほどの数。
これほどの痕跡。
それなのに。
誰も語らない。
誰も覚えていない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
薄暗い旧区画には、重い沈黙だけが静かに残っていた。




