第70話 存在しない聖女
「貴女、すぐにそのトイレへ隠れた方がいいわよ」
オリエッタが静かに告げる。
その声色はいつもと変わらない。
だが、冗談ではないことだけは伝わってきた。
「まぁ? オリエッタさんがそうおっしゃるなら」
セラフィナイトが首を傾げる。
「理由は後で説明するわ」
「今は隠れて」
珍しく、有無を言わせない口調だった。
セラフィナイトは素直に頷く。
「分かりましたわ」
そしてリゼルを見る。
「少しだけ待っていてくださいませ」
「……はい」
リゼルも小さく頷いた。
セラフィナイトがトイレへ入る。
扉が静かに閉まる。
その直後だった。
通路の奥から足音が聞こえてきた。
規則正しく。
迷いなく。
こちらへ向かってくる。
やがて姿を現したのは三人。
一人は重厚なローブを纏った老司祭。
長く整えられた口髭。
穏やかな表情。
だが、その眼差しだけは鋭い。
その隣には、若く凛とした女性。
気品のある立ち姿。
まるで聖女そのものを体現したかのような雰囲気を纏っている。
そして最後尾。
長槍を携えた大柄な男。
門そのものが歩いているような威圧感だった。
老司祭が微笑む。
「久しいな、オリエッタ」
「其方がこの部屋にいるとは珍しい」
オリエッタは肩を竦めた。
「そうかしら」
「少しリゼルに興味があっただけよ」
「ほう」
司祭の視線がリゼルへ向く。
「では、その者がリゼルか」
「左様でございます」
槍の男が短く答える。
リゼルは顔を上げた。
そして若い女性を見る。
胸の奥がざわつく。
(もしかして……)
(この方は聖女?)
司祭が口を開く。
「リゼル」
「長きに渡るセラフィナイト捜索、ご苦労であった」
意外な言葉だった。
責められると思っていた。
叱責されると思っていた。
だが違う。
まるで役目を終えた者への労いだった。
「国としても」
「一人の聖女が欠けることは避けねばならぬ」
淡々とした口調。
当たり前の事実を述べるように。
リゼルは眉を寄せた。
「では……」
「この五年間は、どうなさっていたのですか?」
司祭は即答しなかった。
代わりに隣の女性へ視線を向ける。
「本日より」
静かな宣言。
「国を護る愛の聖女として」
若い女性を示す。
「この者が、その任を担う」
リゼルの呼吸が止まる。
「……本日より?」
思わず聞き返していた。
本日より。
その言葉が引っ掛かる。
五年ではない。
本日より。
司祭は微笑む。
「詳しくは、いずれ語られよう」
答えになっていない。
だが、それ以上語るつもりもないらしい。
胸騒ぎがした。
何かがおかしい。
説明はできない。
だが確実に、何かが噛み合っていない。
司祭は続ける。
「リゼル」
「其方を――」
一拍。
「この聖女オルテシアの侍女として正式に任命する」
静寂。
リゼルは俯いた。
拳が震える。
「……なぜ、ですか」
小さな声だった。
「何がだ?」
司祭が問う。
「私は……」
リゼルが顔を上げる。
「私はセラフィナイト様の侍女です」
若き聖女オルテシアが、わずかに目を伏せた。
だが司祭は変わらない。
「そうであったな」
「ならばなぜですか」
リゼルの声が震える。
「私はまだ探しきれていません」
「まだ何も終わっていません」
「セラフィナイト様は――」
司祭が静かに遮る。
「セラフィナイトは存在しない」
部屋の空気が止まる。
リゼルの瞳が揺れる。
「違います……!」
「私は――」
その時だった。
ガタン。
小さな音。
全員の視線が部屋の隅へ向く。
トイレの扉が開いた。
そこから現れたのは、一人の少女。
オリエッタが深くため息を吐く。
「やっぱり出てきたのね」
槍の男が一歩前へ出る。
「何だ貴様は」
オルテシアも目を見開いた。
「えっ!?」
だが――
セラフィナイトは誰を見るでもなく。
真っ直ぐリゼルの元へ歩いていく。
そして。
その手を優しく握った。
「セラフさん……」
リゼルの声が震える。
セラフィナイトは微笑む。
そして司祭たちへ向き直った。
「リゼルさんは――」
一度だけ深呼吸する。
その声は穏やかだった。
けれど、いつもより強かった。
「わたくしのお隣さんです」
静寂。
「ここにいてはなりません」
真っ直ぐに言い切る。
「お隣さんだからです」
一拍。
「友人だからです」
リゼルの瞳から涙が零れ落ちた。
「お友達が困っているのでしたら」
「迎えに来るのは当たり前ですわ」
誰も言葉を発しない。
司祭は少女を見つめている。
知らない顔。
だが、先ほど「セラフ」と呼ばれていた。
当然、目を離せなかった。
「して、貴女は何者だ。なぜここにいる」
静かな問い。
セラフィナイトは小さく首を傾げる。
「セラフィナイト・ゴールドステインですわ。セラフとお呼びくださいませ」
いつものようにスカートの裾を摘み、優雅に一礼する。
「ただのモブですの」
セラフは得意げな表情でそう告げた。
部屋の空気が、奇妙な沈黙に包まれた。




