第65話 祈りだけが残る者
視界が歪む。
足元がわずかに沈み込むような感覚。
そして――静寂。
だが。
この部屋には、誰もいないわけではなかった。
壁にもたれかかるように、一人の女性が座っている。
白い衣。
乱れた髪。
目は開いている。
だが、その瞳には焦点がなかった。
「誰ですか? そこにいるのは」
セラフィナイトが、そっと一歩前へ出る。
「……おはようございます」
いつもと変わらない、柔らかな挨拶。
女性の瞳がゆっくりと動いた。
こちらを捉える。
ぎこちなく唇が開く。
「……おはよう……ございます……」
返ってきたのは、同じ言葉。
だが、そこに意思は感じられない。
ただ言葉の形だけが残されているようだった。
「……なに、これ」
モルディナが目を細める。
観察するように女性を見つめながら、静かに呟く。
「反応はしてる。でも……」
一拍。
「中身がない」
女性が、ふらりと立ち上がった。
一歩。
また一歩。
不安定な足取りで、こちらへ近づいてくる。
それでも歩みは止まらない。
「……祈り……は……必要……です……」
セラフィナイトは逃げなかった。
ただ、その言葉を静かに受け止める。
「……はい」
小さく頷き、そっと手を伸ばした。
モルディナが息を呑む。
「……セラフちゃん」
止めようとした。
だが、その声は出なかった。
指先が触れる。
その瞬間。
空気が変わった。
女性の瞳が揺れる。
濁っていた焦点が、一瞬だけ戻った。
「……あ……」
かすれた声。
今までとは違う。
そこには確かに、“誰か”がいた。
セラフィナイト自身は理由がわからない。
だが胸の奥が、わずかに熱を帯びた。
懐かしいような。
切ないような。
言葉にならない感覚。
「……あなたも……」
女性の唇が震える。
「……同じ……」
セラフィナイトが目を瞬かせた。
「……同じ、ですか?」
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
女性の表情が、人間のものへ戻る。
「……愛を……」
そこまで言いかけて。
言葉が途切れた。
瞳の光が消える。
身体がぐらりと揺れた。
「……祈り……は……必要……です……」
同じ言葉。
同じ抑揚。
まるで壊れた人形のように。
戻ってしまった。
「……今の、何?」
モルディナが低く問う。
「一瞬だけ、“戻った”」
腕を組みながら考える。
「共鳴……かしら」
セラフィナイトは自分の手を見つめた。
「……もしかして、この方」
慎重に言葉を選ぶ。
「先ほど連れてこられた、あの方ではありませんか?」
モルディナが頷く。
「……可能性は高いわね」
黒い石の壁へ視線を向ける。
重く、淀んだ気配。
この部屋そのものが、何かを削り取っているようだった。
「ここにいるだけで、魔力が削られますわ」
セラフィナイトが静かに言う。
「それも……かなり急速に」
一拍置き、続ける。
「しかも高位の者ほど、影響を強く受けている気がします」
モルディナは頷いた。
「つまり――」
その先を、セラフィナイトが引き継ぐ。
「……この方は、耐えきれなかった」
空気がさらに重くなる。
女性はぼんやりと立ち尽くしたまま。
どこも見ていない目で、虚空を見つめている。
「……祈り、ですか」
セラフィナイトが小さく繰り返す。
女性はゆっくり首を傾げた。
そして笑う。
だが、それは笑顔ではない。
「……祈り……すれば……また……」
言葉はそこで途切れた。
続きが出てこない。
記憶の糸が途中で断ち切られているようだった。
「……記憶も削られているのでは?」
セラフィナイトが困惑したように呟く。
モルディナはしばらく考え、
「削られてる、というより……」
と言葉を選ぶ。
「“形だけ残されてる”感じね」
その表現に、セラフィナイトの瞳がわずかに揺れた。
「……では、この方は」
一歩近づく。
「ここから出ることも……」
モルディナは首を横に振る。
「無理でしょうね」
視線は扉へ向けられていた。
「私たちはワープしている」
「でも彼女は違う」
一拍。
「“ここに固定されている”」
その言葉は冷たく落ちた。
モルディナは苦々しく息を吐く。
「……最悪ね、この国」




