第60話 届かない部屋
目の前にいる。
確かに、そこにいる。
それなのに――届かない。
セラフィナイトの手は、あと数センチのところで止まっていた。
見えない壁。
いや、壁ですらない。
そこには、“空間のズレ”だけが存在していた。
モルディナが、ゆっくりと口を開く。
「……ただの結界じゃないわね、これ」
指先を空間へ滑らせる。
確かに触れている感覚はある。
だが、反発ではない。
もっと奇妙な違和感。
「触れてるのに……触れてない」
カトレアが眉をしかめた。
「もう意味わかんないんだけど」
その時だった。
ヴォルガドが、一歩前へ出る。
そして――そのまま躊躇なく踏み込んだ。
「ちょっ――!」
カトレアの声。
だが、止まらない。
次の瞬間。
ヴォルガドの姿が、消えた。
「……っ!?」
一瞬、空気が凍る。
直後。
少し離れた通路の奥から、鈍い音が響いた。
――ドン。
振り向くと、ヴォルガドが壁に手をついて立っている。
「くっ……なるほどな」
いつもの平然とした声とは少し違った。
だが、何事もなかったかのように戻ってくる。
カトレアが詰め寄った。
「何それ!? どこ行ってたのよ!」
「別室だ」
ヴォルガドは短く答える。
「ここではない、“同型の部屋”へ飛ばされた」
モルディナの目が鋭くなる。
「……やっぱり」
「これ、“ワープ型の封鎖”だわ」
セラフィナイトは、再びリゼルを見る。
距離は変わらない。
何も変わっていない。
だが、その意味だけが変わった。
「入れないんじゃない……」
カトレアが呟く。
「入った瞬間、別の場所に飛ばされるのね……」
モルディナが頷く。
「正しくないと、永遠に辿り着けないタイプね」
空気が重くなる。
完全に罠だった。
しかも――
「助けに来ることを前提に作られてるんじゃ」
モルディナの声が低く沈む。
カトレアが、何かを思い出したように顔を上げた。
「……聞いたことあるわ」
全員の視線が向く。
「“ワープルーム”」
「同じ構造の部屋を複数作って、正しい“接続”じゃないと目的地に辿り着けないやつ」
一拍置いて、続ける。
「場所というより……それを操る能力者がいるって話だけど」
ヴォルガドが静かに目を細める。
「厄介だな」
「術者本人なら解ける。だが――」
そこで言葉を切る。
「“解を他者へ示すことは、ほぼ不可能”と聞く」
沈黙。
それは、“詰み”に近い静けさだった。
カトレアが声を荒げる。
「じゃあどうすんのよ!」
「目の前にいるのよ!?」
リゼルも、こちらを見ていた。
こちらへ向かって、手を伸ばしている。
それでも――届かない。
セラフィナイトは、静かに目を閉じた。
祈る。
いつも通りに。
丁寧に。
やさしく。
だが――
「……っ」
わずかに、呼吸が揺れる。
モルディナが気づいた。
「セラフちゃん……?」
「……少し、重いですわ」
静かな声。
「この空気……祈りが、届きにくい……」
空間そのものが濁っている。
拒んでいるのだ。
祈りを。
想いを。
リゼルが、涙を浮かべながら強く首を振る。
「……やめてください……!」
震える声。
「無理です……ここは……」
言葉が途切れる。
「来る場所じゃ……ないんです……」
セラフィナイトは、ゆっくりと目を開けた。
そして、微笑む。
いつも通りに。
「大丈夫ですわ」
たった一言。
何も解決していない。
だが、その声だけは揺らがない。
ヴォルガドが低く言う。
「……手掛かりはあるはずだ」
「完全な閉鎖ではない」
モルディナも頷く。
「ええ。“解ける前提の罠”よ、これ」
「なら、どこかに必ずヒントがある」
カトレアが周囲を見回す。
「探すしかないってことね……」
その時だった。
セラフィナイトが、ふと足元を見る。
床。
ほんのわずかに――何かの形跡を
彼女だけは、それに気づく。
「……こちらですわ」
顔を上げる。
迷いなく。
静かに、一歩を踏み出す。
その歩みこそが。
この“届かない部屋”へ辿り着くための、最初の答えになることを――




