第46話 名を呼ばれた理由
セラフィナイトは、少女の前で足を止めた。
距離は、手を伸ばせば届くほど。だが、あえて触れない。
驚かせないよう、静かに視線を合わせる。
「何かお困りのようですが……いかがなさいましたか?」
声は、いつもと変わらない。やわらかく、落ち着いている。
その一言を聞いた瞬間だった。
少女の目に、じわりと涙が浮かぶ。
堪えていたものが、決壊するように。
「……おじいちゃんが……」
声が震える。
小さな手が、ぎゅっと握られる。
「捕まっちゃった……!」
視線は、先ほどの方向へ向いたまま。
その背中を、まだ見送り続けているようだった。
「……さっきの、やっぱりそういうことね」
後ろで、カトレアが低く呟く。
「ここから逃げたくなる……そりゃ当然よね」
吐き出すような声。
モルディナも、ゆっくりと周囲を見回す。
荒れた地面。沈んだ空気。
遠くに見える、無機質な建造物。
「……状況は、想像以上に悪いわね」
静かに言う。
その間も、セラフィナイトは少女から視線を逸らさない。
わずかに首を傾ける。
「それは……とても心細いですわね」
責めるでもなく、否定するでもなく。
ただ、受け止めるように。
「差し支えなければ、貴女のお名前を教えていただけますか?」
一拍。
「わたくしは、セラフィナイトと申します」
その名を聞いた瞬間、少女の表情がはっきりと変わった。
驚き。そして、信じられないものを見るような目。
「……え?」
涙を浮かべたまま、セラフを見つめる。
「おねえちゃん……セラフ様なの……?」
その呼び方に、カトレアとモルディナがわずかに反応する。
ヴォルガドも、静かに視線を向けた。
セラフィナイトは、少しだけ困ったように微笑む。
「はい、セラフと申しますが……」
やわらかく問い返す。
「どこかで、お会いになりましたでしょうか?」
少女は、小さく首を振る。
だが、その目は強く揺れている。
「……違う」
ぽつりと。
「でも……おじいちゃんが言ってたの……」
息を整えながら、必死に言葉を繋ぐ。
「優しくて……愛を届ける強い女の人がいるって……」
「セラフ様って呼ばれてるって……」
その言葉に、セラフィナイトの表情がほんのわずかに揺れる。
だがすぐに、やわらかく整えた。
「……そうでしたか」
静かに微笑む。
「ですが、わたくしは初めてここに参りましたので……」
「人違いかもしれませんわね」
やんわりと否定する。
少女の目が、少しだけ伏せられる。
「……そう、なんだ」
落ちる声。
期待が、静かにしぼんでいく。
「ごめんなさい……」
小さく呟く。
セラフィナイトは、首を横に振る。
「いいえ」
やさしく言う。
「教えてくださって、ありがとうございます」
その言葉に、少女はもう一度顔を上げる。
「……ネルファ、です」
少しだけ姿勢を正す。
「わたし……ネルファって言います」
セラフィナイトは、嬉しそうに微笑んだ。
「ネルファさん。素敵なお名前ですわ」
名前を丁寧に呼ぶ。
それだけで、少女の表情がわずかにほどけた。
「おじいちゃんと……外に出ようって……」
ネルファは、震える声で続ける。
「逃げてたら……見つかって……」
一瞬、言葉が詰まる。
「わたしだけ……隠してくれたの……」
沈黙が落ちる。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
セラフィナイトは、静かに頷く。
「そうでしたのね」
責めるでもなく、ただ受け止める。
その姿勢に、ネルファの目に再び涙が滲む。
後ろで、モルディナが小さく息を吐く。
「……これは完全に“逃亡扱い”ね」
視線は鋭いまま。
「しかも、見せしめ込み」
カトレアが、低く続ける。
「助けに行けば、確実に戦闘になるわね」
現実的な判断。
だが、その声には迷いもあった。
セラフィナイトは、ゆっくりと立ち上がる。
ネルファを見つめたまま。
「……ネルファさん」
静かに呼ぶ。
「おじいさまは、どちらへ連れて行かれましたの?」
その問いに、ネルファは迷わず指を伸ばした。
遠く。
黒い石でできた、大きな建物の方角へ。
「あっち……」
小さな声。
「……あそこに、連れていかれると……」
一瞬、言葉が止まる。
そして。
「……帰ってこれない」
はっきりと、言った。
風が、わずかに吹く。
だが、この場の空気は動かない。
重く、沈んだまま。
その中で。
セラフィナイトの瞳だけが、静かに揺れていた。




