第41話 重ね
「……おはようございます」
閉ざされた石の部屋の中で、リゼルの声はあまりにも小さく、あまりにも頼りなかった。
誰にも届かないはずの、ただの挨拶。
それでも彼女は、もう一度だけ同じ形をなぞる。
胸の前で手を重ねる“つもり”で、静かに息を整える。
(どうか……)
願いはひとつ。
(来ないでください)
助けてほしい、ではない。
来てはいけない。
それだけを、強く思う。
この場所に――
あの人を、近づけてはいけない。
祈るように、ではなく。
拒むように。
それでも、その形は確かに“祈り”だった。
──その瞬間。
空気が、わずかに震えた。
なだらかな丘の上。
朝の光の中で、セラフィナイトは祈りを続けていた。
風は穏やかで、空気は澄んでいる。
何も変わらないはずの景色。
だが――
ほんの一瞬だけ。
指先に、かすかな“引っかかり”が生まれる。
「……あら?」
目は閉じたまま。
それでも、確かに感じた。
外からではない。
内側からでもない。
どこか遠く。
けれど確かに、“触れた”。
細く、弱く。
それでも途切れない何か。
モルディナが、その変化に気づく。
セラフィナイトの周囲の空気が、わずかに揺れた。
風とは違う、もっと静かな“ずれ”。
(……来たわね)
視線が鋭くなる。
だが、動かない。
今は――触れさせるべきだと理解している。
セラフィナイトの呼吸が、わずかに深くなる。
胸の前で重ねた手に、ほんの少しだけ力がこもる。
(……誰か)
言葉にはならない感覚。
だが、それは確かに“意思”だった。
迷い。
焦り。
そして――
強く押しとどめるような、静かな願い。
(……来ないで)
その意味だけが、やわらかく流れ込んでくる。
拒絶。
けれど、そこに恐怖だけはない。
誰かを守ろうとする、方向の定まった意思。
セラフィナイトの眉が、ほんのわずかに寄る。
「……リゼルさん?」
小さく、名前を呼ぶ。
その瞬間。
繋がりが、はっきりと形を持った。
点ではなく――線として。
遠くへと、細く、しかし確かに伸びていく。
切れない。
消えない。
届いている。
セラフィナイトは、ゆっくりと顔を上げた。
目を開く。
その瞳は、すでに一点を捉えていた。
迷いはない。
ただ静かに、確信している。
「……あちらですわ」
指先が、ゆっくりと向く。
町の外。
さらにその先。
誰にも見えない“何か”を、なぞるように。
迷いなく。
寸分のずれもなく。
モルディナが、その方向を見て息をわずかに止める。
(……嘘でしょ)
魔力の流れは、何もない。
痕跡も、気配も、完全に消えている。
“消されている”と断言できるほどに、綺麗に。
それなのに。
セラフィナイトは、迷わず指し示した。
「どうして……」
カトレアが呟く。
その声には、理解できないものへの戸惑いが滲んでいた。
答えは、誰も持っていない。
ただ一人を除いて。
「わかりませんわ」
セラフィナイトは、わずかに首を傾げる。
だが、その声に迷いはない。
「でも――」
一拍。
「リゼルさんが、そこにいらっしゃいます」
断定だった。
根拠はない。
理屈もない。
それでも、疑う余地がないほど自然に。
“そうである”と、世界の側が認めているような響き。
ヴォルガドが、ゆっくりと目を細める。
「……面白い」
短く、それだけを言う。
興味。
あるいは、確信に近い何か。
モルディナは、しばらく黙っていた。
その視線は、セラフィナイトと、その先の“何もない空間”を往復する。
やがて。
小さく息を吐いた。
「……行くしかないわね」
現実的な結論。
だが、その中にはわずかな高揚も混じっている。
視線を、セラフィナイトへ戻す。
その瞳の奥を、測るように。
(……やっぱり、この子は)
言葉にはしない。
だが、確信だけが深まっていく。
ただの少女ではない。
けれど――
今はまだ、それでいい。
「セラフちゃん」
やわらかく呼ぶ。
「その方向で、間違いないのね?」
セラフィナイトは、小さく頷いた。
「はい」
迷いのない返答。
モルディナは、ふっと笑う。
「じゃあ、行きましょうか」
その声には、わずかに熱があった。
静かだった朝は、もう終わっている。
動き出した何かが、確かにそこにあった。




