第40話 届かなくても
静寂は、重かった。
石に囲まれた部屋は音を吸い込むようでいて、わずかな気配だけをやけに強く残す。
リゼルは動かない身体のまま、天井を見つめていた。
(……何とかして、伝えないと)
思考だけが、はっきりと動く。
(何か……方法は……)
だが、すぐに行き止まる。
身体は動かない。
魔力も使えない。
声を張ったところで、届く相手はいない。
(セラフ様……)
胸の奥に、その姿が浮かぶ。
朝の光の中で、やわらかく微笑んでいた少女。
あの洞窟で、初めて見つけてもらった時のこと。
それから続いた、穏やかな日々。
決して長くはない時間だった。
それでも――
(あの生活は……)
これまでのどんな日々よりも、確かに温かかった。
そう思った瞬間、視界が滲む。
(……あ)
気づくより先に、涙が頬を伝っていた。
(戻りたい)
素直な願いが浮かぶ。
だが、すぐに打ち消す。
(……だめ)
(今は、それよりも)
意識を強く引き締める。
(来させては、いけない)
あの人を、この場所に。
デラクストーンに。
絶対に。
(誰か……)
思考を巡らせる。
(……モルディナさん)
あの魔女なら。
ほんのわずかな違和感でも拾い上げるはずだ。
(何か……何かあれば……)
だが。
(……何も、できない)
現実は変わらない。
指先ひとつ、動かせない。
閉ざされた空間。
閉ざされた身体。
思考だけが、空回る。
その時。
コツ、コツ、と。
石の床に、硬い音が響いた。
一定のリズムで、こちらへ近づいてくる。
リゼルは、ゆっくりと視線を向ける。
扉が開いた。
入ってきたのは、オリエッタひとりだった。
足を止め、静かにこちらを見る。
「リゼルさん」
落ち着いた声。
「ごめんなさいね」
一拍。
「手荒な真似は、したくなかったんだけど」
視線が、わずかに落ちる。
「悠長にもしていられなかったのよ」
言い訳ではない。
ただ、事実を置いているだけの口調だった。
「理解してもらうしかないわ」
リゼルは、静かに息を整える。
「……私を、どうする気ですか?」
感情を抑えたまま、問い返す。
「何もするつもりはないわ」
即答だった。
「私の任務は、貴女を連れ戻すこと。それだけ」
余計な言葉はない。
「それ以外は、何もしない」
淡々とした線引き。
「……では」
リゼルは、わずかに視線を動かす。
「これを外してください」
自分の身体を示す。
だが――
「それは、私にも外せないの」
あっさりと否定される。
「その時になったら、ね」
そこで会話は途切れた。
リゼルは、目を伏せる。
どうしようもない。
分かっていたことだ。
それでも――
(……もどかしい)
何もできないという事実が、重く残る。
その時。
ふと、思考が引っかかった。
(……そうだ)
完全に何もできないわけではない。
(拘束されていても……)
できることが、ひとつだけある。
(祈り)
セラフィナイトの姿が浮かぶ。
朝の挨拶。
やわらかな声。
胸の前で重ねられた手。
あの所作を、何度も見てきた。
(……やってみるしかない)
リゼルは、ゆっくりと目を閉じる。
身体は動かない。
それでも、意識だけで形をなぞる。
胸の前で手を重ねる“つもり”で。
呼吸を整える。
そして――
「……おはようございます」
小さく、声に出す。
ほんのわずかに、口元に笑みを浮かべる。
ぎこちない。
だが、確かに真似たものだった。
その様子を見て。
オリエッタが、わずかに眉を動かす。
「……貴女、何をしているの?」
リゼルは、目を開ける。
「挨拶です」
短く答える。
一瞬の沈黙。
オリエッタは、わずかに息をついた。
「……そう」
理解したような、していないような返事。
「それしか、できないものね」
否定でも、肯定でもない。
ただ事実として受け取った声音だった。
視線を外す。
「まぁ、いいわ」
背を向ける。
「しばらくは、そのままで待ってなさい」
それだけを残し、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
再び、静寂。
リゼルは、目を閉じたまま――
もう一度、小さく呟く。
「……おはようございます」
届く保証はない。
意味があるかも分からない。
それでも。
“それをする”ことに、意味があった。




