第39話 親愛なる祈り
セラフィナイトは、静かに目を開いた。
ほんの数秒――そう感じられるほど短い祈りの後。
だが、空気は確かに変わっていた。
誰も言葉を発しない。
その沈黙の中で、セラフィナイトはふと顔を上げる。
次の瞬間だった。
踵を返し、そのまま扉へ向かう。
「セラフちゃ――」
呼び止める声よりも早く、扉が開く。
朝の光が差し込み、そのまま――彼女は走り出した。
残された三人は、一瞬だけ言葉を失う。
何が起きたのかを理解するまで、ほんのわずかな間。
最初に動いたのは、モルディナだった。
「……行くわよ」
短くそれだけ告げ、外へ出る。
カトレアとヴォルガドも、すぐに後を追った。
だが――
通りに出た時には、すでにセラフィナイトの姿はなかった。
「速……」
カトレアが言いかける。
モルディナは周囲を見渡し、わずかに目を細めた。
「……もちろん分かるわよ」
軽く言う。
「セラフちゃんのことならね」
その声はいつも通り。
だが視線は、何かを確かめるようにわずかに揺れている。
「こっちね」
足早に進む。
パン屋の前を通り過ぎ、角を曲がる。
朝露の残るなだらかな坂道を登ると――
小さな丘の上に、ひとりの少女が立っていた。
「セラフちゃん!」
モルディナが呼ぶ。
だが、セラフィナイトは振り返らない。
視線は、地面の一点へ。
ゆっくりと、その場所へ歩み寄る。
「ここに……」
小さく呟く。
やわらかな風が、頬を撫でた。
「パンの、かすかな香りがしますわ」
カトレアが周囲を見回す。
「でもここ、パン屋の近くだし……そりゃするでしょ」
もっともな指摘。
だが、セラフィナイトは静かに首を振った。
「いいえ」
その声は、はっきりしている。
「リゼルさんの好きなパンの……二つの香りが、混ざっています」
一瞬、空気が止まる。
モルディナの視線が、ゆっくりとセラフィナイトへ向いた。
「……セラフちゃん」
名を呼びながら、言葉を選ぶ。
「あなた、一体……」
だが、途中で止める。
分かっている。
今、聞くべきではない。
「……いえ、何でもないわ」
小さく息をつき、表情を引き締める。
「でも、そうなると――連れ去られたのは確実ね」
現実的な結論。
「どうしたものかしら。作戦を――」
「いえ」
セラフィナイトが、静かに遮る。
「少し、お待ちください」
その声に、迷いはない。
彼女はその場に立ち、両手を胸の前で重ねる。
先ほどとは違う。
より整えられた所作。
無駄がなく、それでいてどこか優雅で、自然と視線を引き寄せる。
目を閉じる。
呼吸が、静かに整っていく。
周囲の音が遠のき、風の流れさえ穏やかに感じられる。
空気が、澄む。
ただ立っているだけのはずなのに――
そこだけが、別の場所のように静まり返る。
祈りだった。
言葉はない。
だが確かに、“何か”に触れている。
その姿は――
誰の目にも明らかだった。
ただの少女ではない。
「やはり貴女、せ――」
カトレアが思わず声を漏らす。
その瞬間。
モルディナの手が、そっと肩に触れた。
「……今は、そっとしておきましょう」
小さく、しかし確かな声。
カトレアは言葉を飲み込み、小さく頷く。
ヴォルガドも何も言わない。
ただ静かに、その姿を見つめていた。
その瞳には、珍しく真剣な色が宿っている。
やがて――
「リゼルさん、必ず見つけ出しますわ」
セラフィナイトの指先が、わずかに動く。
祈りが、形を持ち始める。
そして。
ゆっくりと、顔を上げた。




