第38話 いないはずの違和感と、小さな祈り
朝の空気は、まだやわらかかった。
「るんるん。まぁいい香り。早くリゼルさんと……」
セラフィナイトは、静かに扉を開ける。
「ただいま戻りましたわ」
いつもと変わらない声。
穏やかで、どこか嬉しそうな響きが残っている。
――けれど。
返事はなかった。
ほんの一瞬だけ、足が止まる。
昨夜。
わずかな違和感が、確かにあった気がする。
けれど、それを掴む前に朝になっていた。
気のせい。
そう思っていたはずなのに――
「リゼルさん?」
靴を脱ぎながら、もう一度呼ぶ。
声は室内にやわらかく広がって――それきりだった。
セラフィナイトは、ほんの少しだけ首を傾げる。
廊下を進む。
居間を覗く。
窓際にも、椅子にも、人の気配はない。
(……あら?)
小さな違和感。
まだ、不安と呼ぶほどではない。
セラフィナイトは、一度だけ静かに瞬きをして――
外へ出た。
朝の光はやわらかく、空気は澄んでいる。
通りにはまだ人影は少ない。
そして、視線の先。
モルディナの魔女城。
その入口にある、小さな鐘へと歩み寄る。
手を伸ばし――
軽く鳴らした。
澄んだ音が、朝の空気に広がる。
ほどなくして。
「あら、セラフちゃん!……どうかした?」
扉が開き、モルディナが姿を見せる。
その後ろから、カトレア。
そして少し遅れて、ヴォルガドが現れた。
「どうしたの?」
モルディナが首を傾げる。
「リゼルさんをお見かけしませんでしたか?」
セラフィナイトは、穏やかに問いかける。
三人の空気が、ほんのわずかに変わる。
「いいえ。見てないわ」
モルディナが答える。
即答だった。
迷いも、含みもない。
「私もよ」
カトレアが腕を組んだまま続く。
「あぁ、知らんな」
ヴォルガドも短く言う。
三人とも、同じ答えだった。
その一致が、逆に静けさを強める。
「そうですか……」
セラフィナイトは小さく頷く。
その表情に、大きな変化はない。
ただ――
わずかに“間”がずれている。
モルディナが、それを見逃さなかった。
「……ちょっと待って」
一歩前に出る。
指先を、軽く宙に滑らせる。
空気をなぞるように、魔力を広げる。
痕跡。流れ。乱れ。
普通なら、何かは引っかかる。
だが――
「……ない」
ぽつりと漏れる。
もう一度、範囲を広げる。
家の中から外へ。通りへ。
それでも。
「……おかしいわね」
今度は、はっきりと言った。
「何か、ありましたの?」
セラフィナイトが静かに問う。
モルディナは、ゆっくりと振り返る。
「“なさすぎる”のよ」
周囲へ視線を巡らせる。
朝の町。
穏やかな空気。
「人が一人消えたなら、普通は何か残るわ」
魔力でも。
空気の歪みでも。
ほんのわずかな“引っかかり”でも。
「でも――何もない」
その言葉に、カトレアが眉を寄せる。
「それって……」
「ええ。綺麗に消されてる」
断定だった。
ヴォルガドが、静かに口を開く。
「……連れ去られたか」
短い一言。
空気が、わずかに張り詰める。
モルディナが横目で見る。
「ねぇ、ヴォルガド。貴方も何かわからないかしら?」
問いかける。
ヴォルガドは肩をわずかにすくめた。
「あぁ。余の場合は、感知系のような繊細なものではない」
一拍。
「敵対するものを分子レベルで破壊する、殲滅系といったところだ」
「それ、やめてよね」
モルディナが即座に返す。
「殲滅しちゃったら、元も子もないから」
軽く息をつく。
だが、その目は笑っていない。
カトレアは、そのやり取りを横で聞きながら思う。
(……やっぱりおかしいわね)
(この二人が、同じ場所にいること自体が異常だわ)
片や伝説級の魔女。
片や存在そのものが規格外の魔王。
(……でも)
(仲良くしておいて正解だったわ。これもセラフの徳というものか)
静かに結論づける。
そして――
(……何もできないのが、もどかしい)
拳を、わずかに握る。
短い沈黙。
その中で――
セラフィナイトだけが、静かに目を伏せた。
胸の前で、そっと手を重ねる。
「……少しだけ」
やわらかな声。
「お祈りしても、よろしいかしら」
三人の視線が集まる。
止める理由はない。
だが――
何が起こるのか、誰も分からない。
セラフィナイトは、その場で目を閉じる。
呼吸が、ゆっくりと整っていく。
朝の光が、わずかに揺れる。
空気が、静かに澄んでいく。
そして――
祈りが、始まる。




