第37話 影は、手を増やす ◆リゼル連れ去り前日譚3
夜はすでに更けていた。
町外れ。低い石壁に囲まれた古い倉庫の裏手。
人の気配はなく、灯りも届かない。
オリエッタは、その壁際に背を預けるでもなく、ただ静かに立っていた。
足元には細い影が伸び、風が時折それを揺らしている。
視線は、町の方角へ向けられたまま。
(……距離は把握した)
リゼルの行動範囲。
生活の導線。
接触する人物。
数日で集めた情報が、頭の中で整理されていく。
(単独行動の時間もある)
だが――問題はそこではない。
オリエッタは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私一人では」
小さく、独り言のように呟く。
「痕跡を残すわね」
あの町の空気。
あの魔女――モルディナの感知精度。
力で押さえれば、確実に気づかれる。
(それは避けるべき)
任務は“回収”。
騒ぎを起こすことではない。
「……なら」
視線を落とす。
足元の影が、わずかに揺れた。
「手を増やすしかない」
判断は早い。
オリエッタは片手を軽く持ち上げる。
指先で空をなぞるように、小さな陣を描く。
淡い光が一瞬だけ浮かび――すぐに消えた。
音はない。
だが、確かに“繋がった”。
「応答しなさい」
低く、抑えた声。
数秒の間。
そして――
『……珍しいですね』
直接ではない。
頭の奥に響くような声。
『あなたが支援を要請するなんて』
オリエッタの表情は変わらない。
「状況が想定と異なる」
簡潔に答える。
「対象は確認済み。確保可能」
一拍置いて、
「ただし、周囲に不確定要素あり」
『どの程度?』
「単独での強行は非推奨」
それだけで十分だった。
相手は理解する。
『……了解』
わずかに声の調子が変わる。
『人員は?』
「最小でいい」
迷いなく言う。
「目立たず、迅速に動ける者を二名」
『選定はこちらで?』
「任せる」
短く。
「ただし――」
わずかに、声の温度が落ちる。
「“痕跡を残さない者”に限る」
数秒の沈黙。
『……厄介な現場のようだ』
「ええ」
否定はしない。
事実として受け入れる。
『到着は二日以内』
「十分よ」
通信が途切れる。
光は完全に消え、周囲は再び静寂に戻った。
オリエッタは手を下ろす。
何もなかったかのように。
(準備は整う)
あとは、機会を待つだけ。
リゼルの動き。
町の流れ。
“あの魔女”の視線。
すべてを計算に入れて。
「……スマートに行きましょう」
最後に、そう呟く。
力任せではない。
感情でもない。
最短で、確実に。
それが、オリエッタのやり方だった。
風が、少しだけ強く吹く。
町の方から、かすかにパンの香りが流れてきた。
オリエッタは、それに反応しない。
ただ、視線を外し――
静かに、その場を離れた。




