第36話 影は、任務を再定義 ◆リゼル連れ去り前日譚2
夜風が、石畳の上を滑っていく。
建物の影を抜け、わずかに開けた通りへ出たところで、オリエッタは足を止めた。
振り返りはしない。
だが、背後に残る気配は、まだはっきりと記憶に残っている。
ゆっくりと息を吐く。
「……危なかったわね」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
表情は変わらない。
だが、わずかに肩の力が抜けていた。
あの距離。あの間合い。
一歩踏み違えれば、即座に衝突していた。
(交戦的な魔女なら、まだやりやすかった)
正面から来る相手なら、対処は単純だ。
力の強弱。技術。間合い。
すべて数値として処理できる。
だが――
(……あれは違う)
歩き出す。ゆっくりと。
夜の通りには、もう人影はない。
あの魔女――モルディナの在り方を思い返す。
自由に見えて、自由ではない。
軽やかに見えて、決して逸れない。
(守るものがある)
その一点で、すべての行動が収束している。
だからこそ。
「……厄介ね」
小さく吐き出す。
守る対象がある者は、強い。
判断がぶれないし、
そして――引かない。
オリエッタは、再び足を止める。
街灯の下。淡い光が、足元だけを照らしている。
(あの魔女と一線交えるのは、得策ではない)
結論は明確だった。
(恐らく、相手にならない)
誇張ではない。
純粋な分析。
あの余裕。
圧を出さずに場を制する感覚。
(……格が違う)
視線を、わずかに落とす。
脳裏に浮かぶのは、もう一人。
銀色の髪の少女。
(セラフ)
名前を、思考の中でなぞる。
あの魔女が、あそこに留まっている理由。
(あの子にある)
断定ではない。
だが、ほぼ確信に近い。
「……あの執着は、異常ね」
守る、というより。
“そこにいることが当然”という前提。
その中心にいる存在。
(……ただの少女、ではないはず)
再び歩き出す。
夜の空気は冷たく、思考はむしろ澄んでいく。
「一国をも滅ぼせる力を持つ魔女が」
ぽつりと。
「こんな場所に留まる理由って」
考えれば考えるほど、単純ではなくなる。
(それほどの価値がある?)
あるいは――
(脅威、なのか)
セラフという存在そのものが。
オリエッタは、わずかに目を細めた。
「……セラフィナイト」
五年前に消えた名。
記録の中の姿。
金の髪。強い魔力。祈り続ける存在。
そして今。
目の前にいるのは、まるで別人のような少女。
(生まれ変わり?)
仮説としては、成立する。
だが――
「……なら」
小さく首を振る。
「力は継承されていない」
あの振る舞い。
あの無防備さ。
少なくとも、“聖女”としての完成形ではない。
「もはや、聖女として期待すること自体――」
一瞬、言葉を選び。
「滑稽ね。もはや不要。」
切り捨てる。
そこに未練はない。
任務は明確だ。
不要な要素は、排除する。
オリエッタは立ち止まり、夜空を見上げた。
狭く切り取られた空。星は少ない。
(やるべきことは変わらない)
思考が、再び一本に収束していく。
「……リゼルのみ、回収」
静かに、結論を置く。
セラフという存在は、現時点では“観測対象”。
だが、任務には含まれていない。
(深入りする理由はない)
むしろ――
(関わらない方が合理的)
モルディナの存在が、それを裏付けている。
わずかに息を吐く。
迷いは、消えた。
「任務通りに」
それだけを、最後に確認する。
オリエッタは歩き出す。
足取りは、再び一定に戻る。
影は、音もなく夜の中へ溶けていく。
だが――
その思考の奥底に、ひとつだけ残るものがあった。
(……本当に、それでいいのか)
その疑問に、答えは出ない。
今はまだ、必要ない。
任務は、すでに決まっているのだから。
深入りはしない。
ただ、望みのままに。




