第29話 影は、静かに町へと入る
その町は まだ、夜が完全には明けきっていない時間だった。
空は淡く、群青と薄橙の境目が、ゆっくりと滲んでいる。
冷えた空気が、肺の奥を静かに満たす。
町は、まだ目覚めの途中にあった。
石畳の道に、ひとつの影が差す。
――コツ。
小さく、乾いた足音。
黒の外套をまとった女――オリエッタ・デラローズは、町の入口で足を止めた。
視線を上げ、空を一度だけ確認する。
(……四時半、か)
早すぎる時間。
人が動き出すには、まだ半歩早い。
(……早く着きすぎたか)
任務に支障はない。
だが、この時間に動く必要も、本来はない。
一拍。
わずかに思考を巡らせて――
(……まぁいい)
小さく結論づける。
(この時間帯は、嫌いではない)
静かで、無駄がない。
世界がまだ“動き出していない”状態。
それは、彼女にとって都合がよかった。
歩き出す。
石畳は夜露を含み、わずかに光を返している。
踏みしめるたび、靴底にかすかな湿り気が伝わる。
通りには、まだ人影は少ない。
店の準備を始めたばかりの者。
水を汲む音。
遠くで開く扉の軋み。
それらが、静かな層となって町を満たしていた。
その中で。
オリエッタは、ふと足を止める。
(……ん?)
視線が、自然と下へ落ちる。
石畳。
その表面が――かすかに光を返している。
朝露の反射。
それにしては。
(……妙に、整っている)
光の粒が、ばらつかず、細く続いている。
まるで――
“導かれている”ように。
視線を上げる。
光の帯は、そのまま通りの奥へと続いていた。
(……偶然、か)
そう結論づけるには、少しだけ不自然だった。
だが、それ以上は考えない。
意味を持たない可能性の方が高い。
再び歩き出す。
今度は、その光の流れに沿うように。
数歩進んだところで。
別の感覚が、鼻をかすめる。
(……匂い)
温度を帯びた、やわらかな香り。
焼きたてのパン。
小麦とバターが混ざり合った、穏やかな匂い。
視線の先。
通りの奥に、小さな店が見える。
まだ完全には開いていない。
だが奥では、すでに火が入っている。
その前に――人の気配が一つ。
オリエッタは、足を緩めた。
距離を取る。
通りの端へ。
視界の外側から、全体を捉える位置。
(……先客か)
それだけの認識。
だが――
「あら、セラフちゃん。今日も早いわねぇ」
店の奥から、親しげな声が響く。
「おはようございます」
返ってきた声は、澄んでいた。
静かな朝に、自然と馴染む声。
強くもなく、弱くもなく。
ただ――
その一言で、空気がわずかに揃う。
「はい!今朝の一番目の焼き立てだよ!」
「いつも美味しいパンをありがとうございます」
「これ、昨夜作ったシチューですの。お口に合うと良いのですが……」
「えぇ!セラフちゃんのシチューだって!ねぇ、パトリック!」
厨房から顔を覗かせた。
「おぉ、それは楽しみだ。後でゆっくりいただくよ。ありがとう」
「もっといっぱい持っていってくれ!おい、ブレンダよろしくな」
「まぁ、嬉しいですわ。みんなにも分けて差し上げますね!」
弾むようなやり取り。
そして――
少女は、軽やかにスキップを始めた。
(……何だ)
変化は、微細。
だが、確実にあった。
オリエッタの視線が、ゆっくりと動く。
声の主へ。
パン屋の前。
淡い光の中に、ひとりの少女が立っている。
銀の髪。
両手に、焼きたてのパン。
距離にして、およそ二十メートル。
この時間帯、この通りでは、視界を遮るものはない。
特別な装いではない。
魔力も、強くは感じない。
だが――
(……中心)
そう、認識していた。
周囲の空気が、その少女を基点に整っている。
朝の静けさと、違和感なく溶け合っている。
少女が、ふと顔を上げる。
こちらに気づいたらしい。
「……あ」
小さな声。
すぐに、表情がやわらぐ。
「あら?」
ほんの少し首を傾げ、両手を胸の前で合わせる。
距離は詰めない。
ただ、その場で――
「おはようございます」
向けられたのは、それだけ。
警戒も、探りもない。
ただの挨拶。
だが――
(……構えが、ない)
この距離で。
この状況で。
何も“備えていない”。
あり得ない。
オリエッタは、わずかに目を細める。
(……観察対象、追加)
任務は変わらない。
リゼルを確保する。
それだけのはずだった。
だが。
この町の空気。
この時間帯。
そして――あの少女。
それらを無視して、完遂できる任務ではない。
朝の光が、ゆっくりと強くなっていく。
空の色が、確かに変わり始める。
その中で――
オリエッタは。
初めて、“立ち止まったまま考えていた”。




