第26話 朝の香りと、辿り着いた場所
朝のご挨拶を終えた帰り道。
やわらかな光の中を、一行はゆっくりと歩いていた。
「このあと、パン屋さんに寄りましょう」
セラフィナイトが、ふと振り返る。
「焼きたてのパン、とても良い香りなんですの」
「いいわね」
モルディナが微笑む。
「朝の締めにはちょうどいいわ」
「……毎度のことだが、妙に落ち着く場所だ」
ヴォルガドが低く呟く。
「貴方がそれ言うの、ちょっと面白いわね」
カトレアが小さく息をついた。
そのやり取りの後ろで――
(……パン)
リゼルの胸が、わずかにざわつく。
理由は分からない。
けれど、その言葉が引っかかった。
店の前。
扉を開けた瞬間――
ふわり、と。
やさしい香りが、全身を包み込んだ。
焼きたてのパンの匂い。
あたたかくて、どこか懐かしい。
「セラフちゃん、おはよう」
明るい声が響く。
「今朝も元気で嬉しいねぇ」
「おはようございます、ブレンダさん」
セラフィナイトは、いつものようにぺこりと一礼した。
「あら?」
ブレンダが目を細める。
「今日は賑やかねぇ。見慣れない子もいるわ」
セラフィナイトは、嬉しそうにリゼルの方へ手を添えた。
「はい!」
「リゼルさんです。新しく加わったお隣さんなんです!」
「仲良くしてくださいませ」
「あら、かわいらしい子ねぇ」
ブレンダは柔らかく笑い、カウンターからひとつパンを取る。
「はい、これ。焼きたてよ」
差し出される、まだ温かいパン。
リゼルは、そっとそれを受け取った。
「……ありがとうございます」
手のひらに伝わる、やわらかな熱。
そして――香り。
その瞬間。
世界が、重なった。
白い部屋。
差し込む朝の光。
静かな空気。
そして――
満ちる、パンの香り。
「おはようございます、セラフィナイト様」
自然にこぼれた言葉。
当たり前のように繰り返していた朝。
振り向く、その人。
やわらかな笑顔。
何も変わらない。
あの頃のまま。
「……っ」
リゼルの手が震える。
視界が滲む。
胸の奥から、溢れる感情。
「……セラフ……様……」
かすれた声。
ぽろり、と涙が零れ落ちる。
止められない。
「あら?」
セラフィナイトが、不思議そうに首をかしげた。
リゼルは一歩近づく。
手を伸ばしかけて――止まる。
震える声で、ようやく言葉を紡ぐ。
「……やっと……」
息が詰まる。
それでも。
「辿り着きました……」
帰り道。
朝の光は、すっかり柔らかさを増していた。
パン屋を出てから、しばらく。
誰も、何も言わなかった。
ただ――
隣を歩くその人の存在だけが、やけに近く感じる。
(……セラフ様)
心の中で、そっと呼ぶ。
さっき。
確かに口にしたはずの名前。
けれど――
もう、声には出せなかった。
リゼルは、少しだけ視線を上げる。
前を歩くセラフィナイト。
いつも通りの、穏やかな背中。
変わらない。
何ひとつ。
あの頃と、同じ。
(……なのに)
胸が、締めつけられる。
違う。
決定的に、違う。
あの人は――
(覚えていない)
その事実が、静かに胸に落ちる。
「どうかなさいましたか?」
ふと、セラフィナイトが振り返る。
やわらかな笑顔。
何も知らない、いつもの表情。
「……いえ」
リゼルは、ゆっくりと首を振る。
「なんでも、ありません」
自然に出た言葉。
けれど、その奥にあるものは――全部、飲み込んだ。
(言えるはずがない)
もし、言ってしまったら。
「セラフィナイト様」と呼べば。
「ずっとお仕えしていました」と伝えれば。
きっと、この人は――
困る。
迷う。
そして。
(……きっと、謝ってしまう)
理由も分からないまま。
自分を責めてしまう。
そんな気がした。
リゼルは、ぎゅっと手を握る。
さっき受け取ったパンの温もりが、まだ残っている。
あの香り。
あの朝。
あの時間。
全部、思い出したわけじゃない。
でも。
(……十分です)
確信は、もうある。
目の前にいるこの人が。
ずっと探していた人だということ。
それだけで――
「……ありがとうございます」
小さく、呟く。
誰にも聞こえないくらいの声で。
それでも。
セラフィナイトが、ふと足を止めた。
振り返る。
「何か、おっしゃいましたか?」
リゼルは一瞬だけ目を見開いて――
そして。
静かに、微笑んだ。
「……いえ」
ほんの少しだけ、強くなった声で。
「なんでも、ありません」
その笑顔は、
昨日までのものより、ずっとやわらかくて。
どこか――
覚悟を決めたような色をしていた。
少し後ろ。
モルディナが、ちらりとその様子を見て、小さく目を細める。
「……なんだか、いい空気ね」
ぽつり、と。
カトレアが腕を組む。
「ええ。詳しくは分からないけれど……悪くないわ」
静かな同意。
ヴォルガドは、わずかに目を細めた。
「……ふん」
それだけ。
だが、その視線は一瞬だけ、リゼルに向けられていた。
リゼルは、もう一度前を見る。
セラフィナイトの背中。
その隣に並ぶことは、まだ少しだけ怖い。
でも。
一歩。
また一歩。
距離は、ゆっくりと縮まっていく。
(今は、これでいい)
名前を呼ばなくてもいい。
全部を伝えなくてもいい。
ただ――
(お側にいられれば)
それだけで、十分だった。
朝の光は、変わらず優しく降り注ぐ。
その中で。
ひとつの関係が、静かに形を変えていく。
失われた主従ではなく――
新しく始まる、もうひとつの距離として。




