第二十五話: 逆転と契約成立
1.甘い毒に気絶する午後
アリスの熱が下がり、医師から軽い運動の許可が出たのは、五日を過ぎた頃だった。
久しぶりの陽光。リハビリを兼ねた庭園の散歩は、穏やかな空気に包まれていた。 ……隣を歩く、「過保護な騎士様」を除いては。
「足元、気をつけてくださいね。疲れていませんか?」
「大丈夫ですよ、クラウス。まだ歩き始めたばかりですし」
アリスの手は、クラウスの大きな手に包み込まれていた。 騎士特有の、剣だこがある硬くて大きな掌。けれど、アリスを扱うその手つきは、壊れ物を扱うように優しく、温かい。
(クラウスの手……大きくて頼もしいな。……好き)
自分の気持ちを自覚した今、繋がれた手から伝わる体温だけで、胸が苦しくなるほど高鳴ってしまう。
(この手、離したくないな)
そんな気持ちが溢れて、アリスは無意識のうちに、繋いだ手にぎゅっ、と力を込めた。 「好きです」と伝える代わりに。
すると。
「……アリス?」
クラウスが足を止めた。 不思議に思って見上げると、彼は何やら愛おしいものを見るような目で、じっとアリスを見下ろしている。 眼鏡の奥、黒にも見える濃紺の瞳に、とろりとした暗い炎が揺らめいた気がした。
「……おや。今日は随分と積極的ですね」
「え?」
「いいですよ。望み通りにして差し上げます」
言うが早いか、繋いでいるだけだった指の間に、クラウスの長い指が滑り込んでくる。 逃げ場を塞ぐようにしっかりと指を絡める、恋人繋ぎ。
「あ、あの、クラウス……?」
至近距離まで引き寄せられ、絡めた手を彼の顔の高さまで持ち上げられる。 クラウスはアリスの目を見つめたまま、その手首の内側――脈打つ場所に、唇を寄せた。
ちゅっ。
あえて音を立てて、熱い口づけが落とされる。 それだけではない。唇が離れる瞬間、ざらりとした舌先が、アリスの肌をねっとりと愛撫した。
「ひゃぅっ!?」
「ふふ……。貴女の手は白くて、砂糖菓子のように美味しそうだ」
クラウスは満足げに目を細めると、真っ赤になったアリスの耳元で、逃げ道を塞ぐように囁く。 その双眸は、光の加減で黒くも見えるほど深く、アリスを映して妖しく輝いていた。
「自分から握ったんです。……もう、離しませんよ?」
(えっ? 指が絡まった? えっ、今、舌!? 美味しい? 私が? ……だめ、クラウスの顔が、色っぽすぎて……むり……)
「アリス? 顔が赤いですが、熱がぶり返しましたか?」 「あ、あふぅ……」
手加減を忘れたクラウスの色香(猛毒)が直撃し、アリスの許容量は限界を突破。 彼女は湯だった頭で「刺激が強すぎます……」と呟くと、そのままカクンと彼の胸に倒れ込み、幸せな気絶を迎えるのだった。
◇◇◇
2.甘いクリームと、もっと甘い暴君
「ん~っ! 美味しいです! やっぱりこのベリーのタルト、最高です!」
先ほどの貧血(という名のときめき過多)から回復したアリスは、クラウスの部屋でティータイムを楽しんでいた。 目の前には、クラウスが用意させた絶品のフルーツタルト。 アリスは幸せそうに頬張り、フォークを進めている。
(あぁ、幸せ……。クラウスの部屋で、二人きりでお茶なんて……)
向かいの席には、優雅に紅茶を啜るクラウス。 その視線が、獲物を観察するように自分に向けられていることになど、食べるのに夢中なアリスは気づいていない。
「……アリス」
「はい?」
もぐもぐ……。
「口元、ついてますよ」
クラウスが自分の口の端をトントン、と指差す。 どうやら、クリームを勢いよく頬張りすぎたらしい。
「あ、すみません! すぐ拭きます!」
アリスが慌ててテーブルのナプキンに手を伸ばそうとした、その時。
「――動かないで」
スッ、とクラウスの手が伸びてきて、アリスの手首を掴んで止める。
「え?」
「じっとしていてください。僕が取りますから」
「えっ、でも、ハンカチが……」
アリスが言い淀む間に、クラウスは椅子から腰を浮かせ、テーブル越しに身を乗り出してくる。 整った顔が、ぐいっと近づく。眼鏡の奥の濃紺の瞳が、至近距離でアリスを捕らえた。
「……ん」
「――っ!?」
ハンカチの感触を予想していたアリスの頬に触れたのは、温かく、湿った感触だった。 ぺろり、と。 クラウスの舌が、アリスの口元についたクリームをひと舐めで拭い去る。
「…………へ?」
時が止まる。 アリスが硬直している目の前で、クラウスはゆっくりと身を引き、自分の唇についたクリームを舌先で舐め取った。
「……うん。やはり甘いですね」
そう言って、妖艶に微笑む。
「ク、ククク、クラウスさん!?」
「なんですか?」
「な、ななな、何してるんですか!? 汚いですよ!?」
アリスは真っ赤になって抗議するが、クラウスは涼しい顔で首を傾げる。
「汚い? まさか。 僕にとっては、皿の上のタルトも、貴女についたクリームも同じ『ご馳走』ですが?」
「い、意味が分かりません! ハンカチ使ってくださいよぉ!」
「もったいないでしょう? それに……貴女の肌の味と混ざって、こちらのほうが美味でしたから」
「~~っ!!」
ボンッ! とアリスの頭から湯気が立ち上るのがみえるようだった。
本日二度目の限界突破。 アリスは茹でダコのように赤くなり、両手で頬を押さえて俯くしかない。
(こ、この人……! やっぱり私の知ってる『騎士様』じゃない! 完全に『肉食獣』だぁーーっ!!)
そんなアリスの様子を見ながら、クラウスは優雅に紅茶を口に運ぶ。 その瞳は、「夜の予行演習」に向けて楽しげに輝いていた。
◇◇◇
3.魔王と騎士の密約
重苦しい空気が漂う中、エリアスは教会からの抗議文を机に放り投げる。
「……教会から苦情が来ている。『聖女アリスが、公爵家の騎士と公衆の面前で不純異性交遊を行っている』とな。 ……事実か? クラウス」
「……はい。弁解の余地もありません。 全ては、私の不徳の致すところです」
クラウスは覚悟を決めていた。 聖女の評判を傷つけた責任を取り、処罰を受けるつもりだった。あるいは、アリスから引き離されることも覚悟の上で、それでも想いを貫くつもりだった。
「相手は現役の聖女だぞ? 生半可な気持ちで手を出していい相手ではない。 ……国中を敵に回しても、彼女を背負う覚悟はあるのか?」
鋭い眼光がクラウスを射抜く。 しかし、クラウスは目を逸らさずに即答した。
「――あります。 私は、アリス様を愛しています。 誰に何を言われようと、彼女を妻に迎え、一生守り抜く所存です」
重い沈黙が流れる。 クラウスが「処分」の言葉を待って目を閉じた、その時。
「…………く、くくく……」
「……?」
「よぉし、よく言った!! 合格だ!!」
クラウスの予想に反して、エリアスは満面に黒い笑みを浮かべた。
「……は?」
エリアスは椅子から立ち上がり、上機嫌でクラウスの肩をバンバンと叩く。
「そうかそうか、結婚か! いやぁ、めでたい! つまりアレだろ? 結婚したら、アリスは『家庭』に入るわけだし、リリアにべったり張り付く時間も減るわけだ!」
「え? あ、はい。そう、なりますが……」
「最高じゃないか! よし、教会の老害どもには俺から話をつけてやる。 『当家の騎士と聖女は、公爵公認の真剣交際だ』とな。 文句がある奴は、俺が灰にしてやるから安心しろ」
(安心……できない……)
「いいかクラウス。 お前は雑音を気にせず、全力でアリスを落とせ。 既成事実を作るなら早いほうがいいぞ? 寝室の手配もしておいてやろうか?」
「い、いえ! それは結構です!!」
(……なんだこの展開。叱られるどころか、背中を蹴り飛ばされる勢いで応援されている……?)
◇◇◇
4.指輪という名の首輪
「結婚が決まりました」と告げられ、パニック状態でアリスはクラウスの膝の上に乗せられていた。
「け、結婚って……! む、無理です! 私みたいな騒がしい女が奥さんなんて、クラウスの経歴に傷がつきます!」
「……はぁ。まだそんなことを言っているんですか」
クラウスは呆れたように息を吐くと、ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出す。
「え……?」
パカッ。 箱の中には、アリスの瞳と同じ色――大粒のエメラルドがあしらわれた美しい指輪が鎮座していた。 深い翠色の輝きは、クラウスがこの瞳にどれほど魅せられているかを物語っているようだった。
「左手を出してください」
「えっ、あ、はい……って、わっ!?」
クラウスはアリスの左手を取ると、迷いなく薬指に指輪を滑り込ませる。 指輪は、まるでその指のために作られたかのように、吸い付くように収まった。
「……うん。完璧ですね。サイズも予想通りだ」
「えっ!? い、いつの間にサイズを!?」
「看病中、貴女が眠っている間に測っておきました。 ……それとも、手繋ぎデートの時に、指の感触で確かめていたとでも言っておきましょうか?」
「へ、変態ーーっ!!」
「褒め言葉として受け取っておきます」
クラウスは、指輪が嵌められたアリスの左手を持ち上げ、薬指にうやうやしく口づける。
「アリス。これは『プロポーズ』であり、『契約』です」
まっすぐに見つめる瞳は、昼間の優しさとは違う、獲物を狙う雄の熱を孕んでいた。
「この指輪を受け取った以上、もう逃がしません。 貴女は一生、僕の側で、僕に愛され、甘やかされる義務があります。 ……拒否権は、ありませんよ?」
「うぅ……っ。 ……そんなの……嬉しいに決まってるじゃないですかぁ……!」
感極まって涙ぐむアリス。 クラウスは満足げに微笑むと、彼女の涙を指で拭い、顔を寄せる。
「いい子だ。 ……では、契約成立の口づけをしましょうか。 今夜は、指輪だけじゃ終わりませんからね?」
指輪をはめられ、アリスはクラウスの膝の上で逃げ場を失ってしまう。
「……それに、貴女が自分で言ったんじゃありませんか?」
クラウスは、アリスの真っ赤な耳元に唇を寄せ、あの日、広場で彼女が放った言葉を低い声で再現する。
「『極上の蜂蜜と、たっぷりの愛で練り上げられた、最高のウェディングケーキ』……でしたか?」
「ひゃあぁっ!? お、覚えてたんですか!? やめてください、忘れてーーっ!!」
アリスは恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆って身悶える。 しかし、クラウスはその手首を優しく掴んで外し、濡れた瞳をじっと見つめる。
「忘れませんよ。僕の人生で、一番嬉しい評価でしたから。 ……さて、アリス様。 貴女は、ご自分で『ドブに捨てるなんてありえない』と豪語したこのケーキを、どうするつもりですか?」
「ど、どうするって……」
「目の前に、貴女だけの『極上のケーキ』がありますよ? ……責任を持って、味見(毒見)していただかないと」
クラウスの顔が、ゆっくりと近づく。 眼鏡の奥の瞳は、とろけるほど甘く、そして逃げ場のない色をしていた。
「うぅ……っ。 ……い、いただきます……」
アリスが観念して目を閉じると、クラウスは満足げに微笑み、その唇に深い口づけを落とした。 パンより甘い、とろけるような未来の味がした。
「いただきます」と観念したアリスを見て、クラウスは面白そうに口角を上げ、わずかに顎を突き出す。
「どうぞ。……まさか、スプーン(僕)が勝手に口に入ってくるのを待っているわけじゃありませんよね?」
「うぅ……意地悪……」
「早くしないと、このケーキ、賞味期限切れになってしまうかもしれませんよ?」
目を閉じて動かないクラウス。 アリスは覚悟を決め、震える手でクラウスの肩を掴む。
(やるしかない……! 夫婦になるんだもん、これくらい……!)
「……えいっ」
チュッ。
触れるだけの、小鳥がついばむような可愛らしいキス。 アリスは真っ赤になりながら、パッと顔を離す。
「……し、しました! これで満足です――」
逃げようとしたアリスの後頭部に、クラウスの手が回る。
「……はぁ。アリス様」
目を開けたクラウスの瞳は、とろりと暗く濁っていた。
「これのどこが『味見』ですか? ……ただ唇が触れただけでしょう。 ケーキの味というのは、もっと『中』まで味わわないと分からないんですよ」
「えっ、中って……んっ!?」
言うが早いか、クラウスはアリスの唇を塞ぎ、今度は容赦なくその奥へと侵入する。 先ほどの可愛いキスとは比較にならない、甘く、重く、酸素を奪い取るような大人のキス。
「んぅっ……! く、ふ……っ!」
数分後(?)、ようやく解放されたアリスは、肩で息をしてぐったりとクラウスの胸に倒れ込む。
「……ごちそうさまでした。 ふふ、やはり僕には、貴女というスパイスが一番合うようだ」
ペロリと唇を舐めるクラウスに、アリスは涙目で抗議する気力も残っていなかった。




